な愛の貧乏人では決してなかったのだ。基督は私達を既に彼の中に奪ってしまったのだ。彼は私の耳に囁《ささや》いていう、「基督の愛は世の凡ての高きもの、清きもの、美しきものを摂取し尽した。悪《あ》しきもの、醜きものも又私に摂取されて浄化した。眼を開いて基督の所有の如何に豊富であるかを見るがいい。基督が与えかつ施したと見えるもの凡ては、実は凡て基督自身に与え施していたのだ。基督は与えざる一つのものもない。しかも何物をも失わず、凡てのものを得た。この大歓喜にお前もまた与《あず》かるがいい。基督のお前に要求するところはただこの一つの大事のみだ。お前が縦令《たとい》凡てを施し与えようとも永遠の生命を失っていたらそれが何になる。お前は偽善者を知っているか。それは犠牲献身という美名をむさぼって、自己に同化し切らない外物に対して浪費する人をいうのだ。自己に同化し切ったものに施すのは即ち自己に施すのだという、世にも感謝すべき事実を認め得ない程に、愛の隠れ家を見失ってしまった人のことだ。浪費の後の苦々しい後味を、強《し》いて笑いにまぎらすその歪《ゆが》んだ顔付を見るがいい。それは悲しい錯誤だ。お前が愛の極印のないものを施すのは一番大きな罪だと知らねばならぬ。そして愛の極印のあるものは、仮令お前がそれを地獄の底に擲《なげう》とうとも、忠実な犬のように逸《いち》早くお前の膝許《ひざもと》に帰って来るだろう。恐れる事はない。事実は遂に伝説に打勝たねばならぬのだ」と。
本当にそうだ。私は愛を犠牲献身の徳を以て律し縛《いまし》めていてはならぬ。愛は智的生活の世界から自由に解放されなければならぬ。この発見は私にとっては小さな発見ではなかった。小さな弱い経験ではあるが、私の見たところも存分にこれを裏書きする。私が創作の衝動に駆られて容赦なく自己を検察した時、見よ、そこには生気に充《み》ち満ちた新しい世界が開展されたではないか。実生活の波瀾《はらん》に乏しい、孤独な道を踏んで来た私の衷《うち》に、思いもかけず、多数の個性を発見した時、私は眼を見張って驚かずにはいられなかったではないか。私が眼を据えて憚《はばか》りなく自己を見つめれば見つめるほど、大きな真実な人間生活の諸相が明瞭に現われ出た。私の内部に充満して私の表現を待ち望んでいるこの不思議な世界、何だそれは。私は今にしてそれが何であるかを知る。それは
前へ
次へ
全87ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング