物をも択《えら》ばなかった。彼は智的生活の為めには、即ち地上の平安の為めには何事をも敢えてなさなかった。彼はその母や弟とは不和になった。多くの子をその父から反《そむ》かせた。ユダヤ国を攪乱《かくらん》するおそれによってその愛国者を怒らせた。では彼は何をしたか。彼はその無上愛によって三世にわたっての人類を自己の内に摂取してしまった。それだけが彼の已《や》むに已まれぬ事業だったのだ。彼が与えて与えてやまなかった事実は、彼が如何に個性の拡充に満足し、自己に与えることを喜びとしたかを証拠立てるものである。「汝《なんじ》自身の如く隣人を愛せよ」といったのは彼ではなかったか。彼は確かに自己を愛するその法悦をしみじみと知っていた最上一人ということが出来る。彼に若し、その愛によって衆生《しゅじょう》を摂取し尽したという意識がなかったなら、どうしてあの目前の生活の破壊にのみ囲まれて晏如《あんじょ》たることが出来よう。そして彼は「汝等もまた我にならえ」といっている。それはこの境界《きょうがい》が基督自身のものではなく、私達凡下の衆もまた同じ道を歩み得ることを、彼自身が証言してくれたのだ。
 やがて基督が肉体的に滅びねばならぬ時が来た。彼は苦しんだ。それに何の不思議があろう。彼は自分の愛の対象を、眼もて見、耳もて聞き、手もて触れ得なくなるのを苦しんだに違いない。又彼の愛の対象が、彼ほどに愛の力を理解し得ないのを苦しんだに違いない。然し最も彼を苦しめたものは、彼の愛がその掠奪の事業を完全に成就したか否かを迷った瞬間にあったであろう。然し遂に最後の安心は来た「父よ(父よは愛よである)我れわが身を汝に委《ゆだ》ぬ」。そして本当に神々《こうごう》しく、その辛酸に痩《や》せた肉体を、最上の満足の為めに脚《あし》の下に踏み躙《にじ》った。
 基督の生涯の何処に義務があり、犠牲があるのだろう。人は屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》いう、基督は有らゆるものを犠牲に供し、救世主たるの義務の故に、凡ての迫害と窮乏とを甘受し、十字架の死をさえ敢えて堪え忍んだ。だからお前達は基督の受難によって罪からあがなわれたのだ。お前達もまた彼にならって、犠牲献身の生活を送らなければならないと。私は私一個として基督が私達に遺《のこ》して行った生活をかく考えることはどうしても出来ない。基督は与えることを苦痛とするよう
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