し同じ本能から生れたものであるとすれば、それは必ず成就さるべきものだ。如何なるものも、或る視角から憎むべきものならば、他の視角から必ず愛すべきものであることに私達は気附くだろう。ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器は私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。私はその用途を私が考えていたよりは他の方面に用いることによって、その器を私に役立てることが出来るだろう。その時には私の憎みは、もう愛に変ってしまうだろう。若し憎みの故にその器を取って直ちに粉砕してしまう人があったとすれば、その人は愛することに於てもまた同様に浅くしか愛し得ない人だ。愛の強い人とは執着の強い人だ。憎みの場合に於いても、かかる人の憎みは深刻な苦痛によって裏付けられる。従って容易にその憎しみの対象を捨ててはしまわない。そしてその執着の間に、ふとしたきっかけにそれを愛の対象に代えてしまうだろう。
 かくして私の愛が深く善くなるに従って、私はより多くを愛によって摂取し、摂取された凡てのものは、あるべき排列をなして私の衷《うち》に同化されるだろう。かくて私の衷にある完《まった》き世界が新たに生れ出るだろう。この大歓喜に対して私は何物をも惜みなく投げ与えるだろう。然しその投げ与えたものが如何に高価なものであろうとも、その歓喜に比しては比較にもならぬほど些少《さしょう》なものであるのを知った時、況《ま》してや投げ与えたと思ったその贈品すら、畢竟《ひっきょう》は復《ま》た自己に還って来るものであるのを発見した時、第三者にはたとい私の生活が犠牲と見え、献身と見えようとも、私自身に取っては、それが獲得であり生長であるのを感じた時、その時、私が徹底した人生の肯定者ならざる何人であり得よう。凡ての人がかくの如く本能の要求によって生活し、相交渉した時、そこに本当の健全な社会が生れ出ないで何が生れ出よう。凡ての行為が義務でなく遊戯であらねばならぬとの要求が真に感ぜられた時、人間の生活がこれから如何に進展せねばならぬかの示唆は適確に与えられるのだ。この本能を抑圧する必要のある、若しくは抑圧すべき道徳の上に成り立たねばならぬとの主張の上に据えられた人類の集団生活には見遁《みのが》すことの出来ないうそがある。このうそを、あら
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