いるかを。それが人間に至って、全く反対の方向を取るというのか。そんな事があり得べきではない。ただ人間は nicety の仮面の下に自分自らを瞞着《まんちゃく》しようとしているのだ。そして人間はたしかにこの偽瞞の天罰を被っている。それは野獣にはない、人間にのみ見る偽善の出現だ。何故愛をその根柢的《こんていてき》な本質に於てのみ考えることが悪いのだ。それをその本質に於て考えることなしには人間の生活には遂に本当の進歩創作は持ち来《きた》されないであろう。
智的生活の動向はいつでも本能を堕落させ、それを第二義的な状態に於てのみ利用する。智的生活の要求するものは平安無事である。この生活にあっては、愛の本質よりもその現われが必要である。内部の要求はさもあらばあれ、互に与え合う事さえやれば、それで平安は保たれてゆく。それ故に倫理道徳は義務と献身との徳を高調する。人は遂にこの固定的な概念にあざむかれる。そして愛のないところに、愛が行うのと同じ行いをする。即ち愛の極印なき所有物を外界に向って恥じることもなく放射する。けれども愛の極印のない所有物は、一度外界に放射されると、またとはその人に返って来ない。その時彼にとっては行為の結果に対する苦《にが》い後味が残る。その後味をごまかすために、彼は人の為めに社会の為めに義務を果し、献身の行いをしたという諦《あきら》めの心になる。そしてそこに誇るべからざる誇りを感じようとする。社会はかくの如き人の動機の如何《いかん》は顧慮することなく、直ちに彼に与えるのに社会人類の恩人の名を以てする。それには智的生活にあっては奨励的にそうするのが便利だからだ。そんな人はそんな事は歯牙《しが》にかけるに足らないことのように云いもし思いもしながら、衷心の満ち足らなさから、知らず知らずそれを歯牙にかけている。かくてその人は愛の逆用から来る冥罰《みょうばつ》を表面的な概念と社会の賞讃によって塗抹《とまつ》し、社会はその人の表面的な行為によって平安をつないで行く。かくてその結果は生命と関係のない物質的な塵芥《じんかい》となって、生活の路上に醜く堆積《たいせき》する。その堆積の余弊は何んであろう。それは誰でも察し得る如く人間そのものの死ではないか。
一八
愛は個性の生長と自由とである。そうお前はいい張ろうとするが、と又或る人は私にいうだろう。この世
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