ヤトリスと相互的に通い合わなかった(愛は相互的にのみ成り立つとのみ考える人はここに注意してほしい)。ダンテだけが、秘めた心の中に彼女を愛した。しかも彼は空《むな》しかったか。ダンテはいかにビヤトリスから奪ったことぞ。彼は一生の間ビヤトリスを浪費してなお余る程この愛人から奪っていたではないか。彼の生活は寂しかった。※[#「骨+亢」、第4水準2−93−7]※[#「骨+葬」、第4水準2−93−15]《こうそう》であった。然しながら強く愛したことのない人々の淋しさと比べて見たならばそれは何という相違だろう。ダンテはその愛の獲得の飽満さを自分一人では抱えきれずに、「新生」として「神曲」として心外に吐き出した。私達はダンテのこの飽満からの余剰にいかに多くの価値を置くことぞ。ホイットマンも嘗《かつ》てその可憐《かれん》な即興詩の中に「自分は嘗て愛した。その愛は酬いられなかった。私の愛は無益に終ったろうか。否。私はそれによって詩を生んだ」と歌っている。
見よ、愛がいかに奪うかを。愛は個性の飽満と自由とを成就することにのみ全力を尽しているのだ。愛は嘗て義務を知らない。犠牲を知らない。献身を知らない。奪われるものが奪われることをゆるしつつあろうともあるまいとも、それらに煩《わずら》わされることなく愛は奪う。若し愛が相互的に働く場合には、私達は争って互に互を奪い合う。決して与え合うのではない。その結果、私達は互に何物をも失うことがなく互に獲得する。人が通常いう愛するものは二倍の恵みを得るとはこれをいうのだ。私は予期するとおりの獲得に対して歓喜し、有頂天になる。そして明かにその獲得に対して感激し感謝する。その感激と感謝とは偽善でも何でもない。あるべかりしものがあったについての人の有し得るおのずからの情である。愛の感激……正しくいうとこの外に私の生命はない。私は明かに他を愛することによって、凡てを自己に取り入れているのを承認する。若し人が私を利己主義者と呼ぼうとならば、私はそう呼ばれるのを妨げない。若し必要ならば愛他的利己主義者と呼んでもかまわない。苟《いやしく》も私が自発的に愛した場合なら、私は必ず自分に奪っているのを知っているからだ。
この求心的な容赦なき愛の作用こそは、凡ての生物を互に結び付けさせた因子ではないか。野獣を見よ、如何《いか》に彼等の愛の作用(相奪う状)が端的に現われて
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