の中には他の為めに自滅を敢《あ》えてする例がいくらでもあるがそれをどう見ようとするのか。人間までに発達しない動物の中にも相互扶助の現象は見られるではないか。お前の愛己主義はそれをどう解釈する積りなのか。その場合にもお前は絶対愛他の現象のあることを否定しようとするのか。自己を滅してお前は何ものを自己に獲得しようとするのだ。と或る人は私に問い詰めるかも知れない。科学的な立場から愛を説こうとする愛己主義者は、自己保存の一変態と見るべき種族保存の本能なるものによってこの難題に当ろうとしている。然《しか》しそれは愛他主義者を存分に満足させないように、又私をも満足させる解釈ではない。私はもっと違った視角からこの現象を見なければならぬ。
 愛がその飽くことなき掠奪《りゃくだつ》の手を拡げる烈《はげ》しさは、習慣的に、なまやさしいものとのみ愛を考え馴《な》れている人の想像し得るところではない。本能という言葉が誤解をまねき易《やす》い属性によって煩《わずら》わされているように、愛という言葉にも多くの歪《ゆが》んだ意味が与えられている。通常愛といえば、すぐれて優しい女性的な感情として見られていはしないか。好んで愛を語る人は、頭の軟《やわら》かなセンティメンタリストと取られるおそれがありはしまいか。それは然し愛の本質とは極《きわ》めてかけ離れた考え方から起った危険な誤解だといわなければならぬ。愛は優しい心に宿り易くはある。然し愛そのものは優しいものではない。それは烈しい容赦のない力だ。それが人間の生活に赤裸のまま現われては、却って生活の調子を崩《くず》してしまいはしないかと思われるほど容赦のない烈しい力だ。思え、ただ仮初《かりそ》めの恋にも愛人の頬《ほお》はこけるではないか。ただいささかの子の病にも、その母の眼はくぼむではないか。
 個性はその生長と自由とのために、愛によって外界から奪い得るものの凡《すべ》てを奪い取ろうとする。愛は手近い所からその事業を始めて、右往左往に戦利品を運び帰る。個性が強烈であればある程、愛の活動もまた目ざましい。若《も》し私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。
 だからその場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如くして極めて自然であ
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