父上は舵座《かじざ》にあぐらをかいて、時々晴雨計を見やりながら、変化のはげしいそのころの天気模様を考えている。海の中から生まれて来たような老漁夫の、皺《しわ》にたたまれた鋭い眼は、雲一片の徴《しるし》をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手のひらを腰のあたりの荒布にこすりつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立て直している。雇われた二人の漁夫は二人の漁夫で、二尋《ふたひろ》置きに本縄《ほんなわ》から下がった針に餌《え》をつけるのに忙《せわ》しい。海の上を見渡すと、港を出てからてんでんばらばら[#「てんでんばらばら」に傍点]に散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を目がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ。
夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの界《さかい》とも言うべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取る事ができる。
帆がおろされる。勢いで走りつづける船足は、舵《かじ》のために右なり左なりに向け直される。同時に浮標《うき》の付いた配縄《はいなわ》の一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる。二十五町から三十町に余る長さをもった縄全体が、海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子午線近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船は艪《ろ》にあやつられて、横波を食いながらしぶしぶ[#「しぶしぶ」に傍点]進んで行く。ざぶり‥‥ざぶり‥‥寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、物すごいインド藍《あい》の底のほうに、雲間を漏れる日光で鈍く光る配縄の餌《え》をのみ込んで行く。
今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急にさっ[#「さっ」に傍点]と薄曇ると、どこからともなく時雨《しぐれ》のような霰《あられ》が降って来て海面を泡立《あわだ》たす。船と船とは、見る見る薄い糊《のり》のような青白い膜《まく》に隔てられる。君の周囲には小さな白い粒がかわき切った音を立てて、あわただしく船板を打つ。君は小ざかしい邪魔者から毛糸の襟巻《えりまき》で包んだ顔をそむけながら、配縄を丹念におろし続ける。
すっと空が明るくなる。霰《あられ》はどこかへ行ってしまった。そしてまっさおな海面に、漁船は陰になりひなたになり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながらさびしく漂っている。
きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。
寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。配縄《はいなわ》を投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、舵座《かじざ》におこされた焜炉《こんろ》の火のまわりに慕い寄って、大きなお櫃《ひつ》から握り飯をわしづかみにつかみ出して食いむさぼる。港を出る時には一かたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、涯《はて》もなく露領に続く海原《うなばら》のここかしこに漂わせている。三里の余も離れた陸地は高い山々の半腹から上だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が、日を受けた所は銀のように、雲の陰になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。
漁夫たちは口を食物で頬張《ほおば》らせながら、きのうの漁《りょう》のありさまや、きょうの予想やらをいかにも地味な口調で語り合っている。そういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人である事に気づく。同じ艪《ろ》をあやつり、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心の距《へだた》りだろう。押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐあとからまくしかかって来る芸術に対する執着をどうすることもできなかった。
とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒で炊《た》き上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほど尊さと厳粛さとを持っている。ましてや彼らがこの目ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、矯飾《きょうしょく》もなく、不平もなく、素直に受け取り、軛《くびき》にかかった輓牛《ひきうし》のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。
こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり舵座《かじざ》にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。
六
それはある年の三月に、君が遭遇した苦《にが》い経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波濤《はとう》と戦いながら配縄《はいなわ》をたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配縄を切って捨てさせなければならなくなった。
「またはあ銭《ぜに》こ海さ捨てるだ」
と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて配縄《はいなわ》を切ってしまった。
海の上はただ狂い暴《あ》れる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまちまっ白な泡《あわ》の山に変じて、その巓《いただき》が風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる。目も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波からのがれたり、さながら風の怒りをいどむ小悪魔のように、面憎《つらにく》く舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落として来た雪のちぎれ[#「ちぎれ」に傍点]は、大きな霧のかたまり[#「かたまり」に傍点]になって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く。
雪と浸水《あか》とで糊《のり》よりもすべる船板の上を君ははうようにして舳《へさき》のほうへにじり寄り、左の手に友綱の鉄環《かなわ》をしっかり[#「しっかり」に傍点]と握って腰を据《す》えながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は大竿《おおざお》を風上になった舷《ふなべり》から二本突き出して、動かないように結びつける。船の顛覆《てんぷく》を少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、舵座《かじざ》にいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっている。そしてその間にもしっきり[#「しっきり」に傍点]なしに打ち込む浸水《あか》を急がしく汲《く》んでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙に上《うわ》ずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳には物すごくも心強くも響いて来る。
「おも舵っ」
「右にかわすだってえば」
「右だ‥‥右だぞっ」
「帆綱をしめろやっ」
「友船は見えねえかよう、いたらくっつけ[#「くっつけ」に傍点]」やーい
どう吹こうとためらっていたような疾風がやがてしっかり[#「しっかり」に傍点]方向を定めると、これまでただあて[#「あて」に傍点]もなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤《うねり》に変わって行った。言葉どおりに水平に吹雪《ふぶ》く雪の中を、後ろのほうから、見上げるような大きな水の堆積《たいせき》が、想像も及ばない早さでひた押しに押して来る。
「来たぞーっ」
緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、艫《とも》が薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船はひとあおりあおって、物すごい不動から、奈落《ならく》の底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った。同時に耳に余る大きな音を立てて、紆濤《うねり》は屏風倒《びょうぶだお》しに倒れかえる。わきかえるような泡《あわ》の混乱の中に船をもまれながら行く手を見ると、いったんこわれた波はすぐまた物すごい丘陵に立ちかえって、目の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く。
ほっ[#「ほっ」に傍点]と安堵《あんど》の息をつく隙《すき》も与えず、後ろを見ればまた紆濤《うねり》だ。水の山だ。その時、
「あぶねえ」
「ぽきりっ[#「ぽきりっ」に傍点]」
というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根もとから折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。
君は咄嗟《とっさ》に身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった。人々は騒ぎ立って艪《ろ》を構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった。帆の自由である限りは金輪際《こんりんざい》船を顛覆《てんぷく》させないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船足のとまった船ではもう舵《かじ》もきかない。船は波の動揺のまにまに勝手放題に荒れ狂った。
第一の紆濤《うねり》、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆からかばってくれた。しかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。
雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い波頭《なみがしら》が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫《とも》を波のほうへ向ける事も得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりを打って※[#「※」は「革へん+堂」、第3水準1−93−80、54−18]《どう》とくずれこんだ。
はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその時おそく、君らはもうまっ白な泡《あわ》に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして顛覆《てんぷく》した船体にしがみつこうともがいていた。見ると君の目の届く所には、君の兄上が頭からずぶぬれになって、ぬるぬると手がかりのない舷《ふなべり》に手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言った。兄上も大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きな口をあくのが見えるだけで、声は少しも聞こえて来ない。
割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そし
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