て君は、着込んだ厚衣《あつし》の芯《しん》まで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどの忙《せわ》しさで、目と鼻ぐらいの近さに押し迫った死からのがれ出る道を考えた。心の上澄《うわず》みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ちついていた。それは君自身にすら物すごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして目あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ち付きに落ち付いて、「死にはしないぞ」とちゃん[#「ちゃん」に傍点]ときめ込んでいるのがかえって薄気味悪かった。それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった。
 君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷《ふなべり》のほうへ集まって来た。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
 「それ今ひと息だぞっ」
 君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
 おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面《よこつら》に大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船はくるり[#「くるり」に傍点]と裏返った。舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、すっぽり[#「すっぽり」に傍点]と氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかししこたま[#「しこたま」に傍点]着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆《てんぷく》するにきまっている。生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏捷《びんしょう》な働きをする。五人の中の二人は咄嗟《とっさ》に反対の舷に回った。そして互いに顔を見合わせながら、一度にやっ[#「やっ」に傍点]と声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない。次の瞬間にはわっ[#「わっ」に傍点]と声をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。
 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒《ふんぬ》の中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間は塵《ちり》ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにも係わらず君たちは頑固《がんこ》に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした。
 舷《ふなべり》を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとした。ある者は艪《ろ》を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓《みずびしゃく》を、あるものは長いたわし[#「たわし」に傍点]の柄を、何ものにも換えがたい武器のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を漕《こ》いだり、浸水《あか》をかき出したりした。
 吹き落ちる気配《けはい》も見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷《すばや》さで方角を嗅《か》ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの鉢《はち》の中ですりまぜたように渾沌《こんとん》としてしまった。
 薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
 「死にはしないぞ」――そんなはめ[#「はめ」に傍点]になってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、57−17]《こめかみ》のへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけがはっきり[#「はっきり」に傍点]君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った。
 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかり[#「すっかり」に傍点]無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも納《い》れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。
 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
 船! ‥‥船!
 濃い吹雪《ふぶき》の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の背《そびら》に乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一|艘《そう》の船!
 それを見ると何かが君の胸をどきん[#「どきん」に傍点]と下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎《な》えてしまっていた。
 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪《ふぶき》を隔てた事だから、乗り組みの人の数もはっきり[#「はっきり」に傍点]とは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊《はくあ》のような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、舳《へさき》は依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は傾《かし》いだまま矢よりも早く走っている。君の頭はかあん[#「かあん」に傍点]としてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
 怒濤《どとう》。白沫《しらあわ》。さっさっと降りしきる雪。目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった。
 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚《ハルシネーション》だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
 「死にはしないぞ」
 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
 君たちがほんとうに一|艘《そう》の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。
 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
 やがて行く手の波の上にぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と雷電峠の突角が現われ出した。山脚《やまあし》は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足|爪立《つまだ》てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
 「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵《かじ》を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩《なだれ》にも打たせんなよう‥‥」
 そう言う声がてんでん[#「てんでん」に傍点]に人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪《ふぶき》の間からまっ黒に天までそそり立つ断崕《だんがい》に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、艪《ろ》を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
 陸地に近づくと波はなお怒る。鬣《たてがみ》を風になびかして暴《あ》れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫《ひまつ》になり、飛沫はしぶき[#「しぶき」に傍点]になり、しぶき[#「しぶき」に傍点]は霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫《しらあわ》を五丈も六丈も高く飛ばして、反《そ》りを打ちながら海の中にどっ[#「どっ」に傍点]とくずれ込む。
 その猛烈な力を感じてか、断崕《だんがい》の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との縁《えん》から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。巓《いただき》を離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星《いんせい》のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾《おおすだれ》だ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重《いおえ》の大波はたちまちおい退けられて漣《さざなみ》一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方か
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