んど、暮らしも忙《せわ》しいし、やってもおらにはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」
 と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになった。その時はあぐらにした両脛《りょうすね》を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。
 私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪《ふぶき》は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った。仁王《におう》のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や敵愾心《てきがいしん》から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る事に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。
 次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちん[#「かちんかちん」に傍点]に凍った兵隊|長靴《ながぐつ》をはいて、黒い外套《がいとう》をしっかり[#「しっかり」に傍点]着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。なごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身《しんみ》にかれこれと君をいたわった。すっかり[#「すっかり」に傍点]頭巾《ずきん》をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は素朴《そぼく》なはばかりから帽子もかぶらずに、重々しい口調で別れの挨拶《あいさつ》をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た。
 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞《しま》になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。
 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。
 私がそこを発《た》って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった。

       四

 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿《つばき》が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解《ゆきげ》の水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立《かどだ》った波をあげて、岸を目がけて終日攻めよせているだろう。それにしてももう老いさらぼえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天秤棒《てんびんぼう》をになって、無理にも春をよび覚《さ》ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽《つがる》や秋田《あきた》へんから集まって来た旅雁《りょがん》のような漁夫たちが、鰊《にしん》の建網《たてあみ》の修繕をしたり、大釜《おおがま》の据《す》え付《つ》けをしたりして、黒ずんだ自然の中に、毛布の甲がけや外套《がいとう》のけばけばしい赤色をまき散らす季節にはなったろう。このころ私はまた妙に君を思い出す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く。君はまざまざと私の想像の視野に現われ出て来て、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢と現《うつつ》との閾《しきい》はないと言っていい。彼は現実を見ながら眠っている事がある。夢を見ながら目を見開いている事がある。私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみる事を君は拒むだろうか。私の鈍い頭にも同感というものの力がどのくらい働きうるかを私は自分でためしてみたいのだ。君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう。
 君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出て来るのは、なんと言ってもさびしく物すさまじい北海道の冬の光景だ。

       五

 長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇《だいじゃ》の亡骸《むくろ》のようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤《はとう》の牙《きば》が、小休《おや》みもなくその胴腹に噛《く》いかかっている。砂浜に繁《もや》われた百|艘《そう》近い大和船は、舳《へさき》を沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のお櫃《ひつ》とを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗い闇《やみ》の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらり[#「ぎらり」に傍点]と光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥《いちばんどり》が鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって灯《ひ》一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。汀《みぎわ》まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん[#「ざぶんざぶん」に傍点]砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。
 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお内儀《かみ》さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない闇《やみ》の中から、硫黄《いおう》が丘《たけ》の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。
 模範船(港内に四五|艘《そう》あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始める。どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った烏《からす》の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお内儀《かみ》さんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る。
 「出すべ」
 そのさざめきの間に、潮で※[#「※」は「金へん+肅」、第3水準1−93−39、46−9]《さ》び切った老船頭の幅の広い塩辛声《しおからごえ》が高くこう響く。
 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に夫《おっと》や兄や情人やを介抱して駆け歩く。今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船の艫《とも》には漁夫たちが膝頭《ひざがしら》まで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く。最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、猿《ましら》のように船の上に飛び乗っている。ややともすると、舳《へさき》を岸に向けようとする船の中からは、長い竿《さお》が水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。
 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱《じょうらん》の中から、漁夫たちの鈍いLargo pianissimoとも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられるAllegro Moltoを思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える。
 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは百足虫《むかで》のように艪《ろ》の足を出し、艫《とも》からは鯨のように舵《かじ》の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波のしぶき[#「しぶき」に傍点]をしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、浸水《あか》をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火《かいか》のように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の火箸《ひばし》に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる印《しるし》と見て船を停《と》め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇《ぎょうあん》を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。
 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。猫《ねこ》のような声で小さく呼びかわすこの海の砂漠《さばく》の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の闇《やみ》は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には黎明《れいめい》の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の絶巓《ぜってん》をなでたりたたいたりして叢立《むらだ》ち急ぐ嵐雲《あらしぐも》は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色《ふじいろ》に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
 私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄《はいなわ》の用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳《そうごん》なこの日の序幕をながめているのだ。君の
前へ 次へ
全12ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング