来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出て見ると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、幔幕《まんまく》を真一文字に張ったような雪雲の堆積《たいせき》に日がさして、まんべんなくばら色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠のいて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出あった人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなり兼ねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。
朝晩の凍《し》み方はたいして冬と変わりはない。ぬれた金物がべたべたと糊《のり》のように指先に粘りつく事は珍しくない。けれども日が高くなると、さすがにどこか寒さにひび[#「ひび」に傍点]がいる。浜べは急に景気づいて、納屋の中からは大釜《おおがま》や締框《しめわく》がかつぎ出され、ホック船やワク船をつと[#「つと」に傍点]のようにおおうていた蓆《むしろ》が取りのけられ、旅烏《たびがらす》といっしょに集まって来た漁夫たちが、綾《あや》を織るように雪の解けた砂浜を行き違って目まぐるしい活気を見せ始める。
鱈《たら》の漁獲がひとまず終わって、鰊《にしん》の先駆《はしり》もまだ群来《くけ》て来ない。海に出て働く人たちはこの間に少しの間《ま》息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にねらっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろんふところの中には手慣れたスケッチ帳と一本の鉛筆とを潜まして。
家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん[#「でめん」に傍点](女労働者)や、海産物の仲買いといったような人々がにぎやかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のように磐《いわ》になって、その上を雪解けの水が、一冬の塵埃《じんあい》に染まって、泥炭地《でいたんち》のわき水のような色でどぶどぶと漂っている。馬橇《ばそり》に材木のように大きな生々しい薪《まき》をしこたま[#「しこたま」に傍点]積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な内儀《かみ》さんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
「はれ兄《あん》さんもう浜さいくだね」
「うんにゃ」
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人《ふと》が暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪体《けたい》だあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすら妬《や》いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
「口はばったい事べ言うと鰊様《にしんさま》が群来《くけ》てはくんねえぞ。おかしな婆様《ばさま》よなあお前も」
「婆様だ!?[#「!?」は横一列、第3水準1−8−78、79−13] 人聞《ふとぎ》きの悪い事べ言わねえもんだ。人様《ふとさま》が笑うでねえか」
実際この内儀さんの噪《はしゃ》いだ雑言《ぞうごん》には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、橇《そり》の後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。
「そだ。そだ。兄《あん》さんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前に惚《ほ》れこすに」
君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっ[#「どっ」に傍点]と笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
「春が来るのだ」
君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌《さっぽろ》のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁屑《わらくず》や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くも忙《いそが》しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店の角《かど》を曲がって割合にさびれた横町にそれた。
その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それ
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