につづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのない抉《く》り抜《ぬ》きの事務椅子《じむいす》に腰かけて、黒い事務マントを羽織った悒鬱《ゆううつ》そうな小柄な若い男が、一心に小形の書物に読みふけっている。それはKと言って、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から目をあげてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立って来てガラス障子をあける。
 「どこに」
 君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
 「君はきょうは出られまい」
 君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
 「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいか忙《せわ》しい。しかし今はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」
 「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」
 「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書簡集を君の目の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうがやはり僕には似合わしいようだ」
 そう言って君の友は、悒鬱《ゆううつ》な小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心とがめするもののようにスケッチ帳をふところに納めてしまった。
 「じゃ行って来るよ」
 「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
 この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。
 南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥《どぶどろ》をこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い兵隊長靴《へいたいながぐつ》はややともするとすぽりすぽり[#「すぽりすぽり」に傍点]と踏み込んだ。
 雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ爪先上《つまさきあ》がりに広がって、おりから晴れ気味になった雲間を漏れる日の光が、地面の陰ひなたを銀と藍《あい》とでくっきり[#「くっきり」に傍点]といろどっている。寒い空気の中に、雪の照り返しがかっかっ[#「かっかっ」に傍点]と顔をほてらせるほど強くさして来る。君の顔は見る見る雪焼けがしてまっかに汗ばんで来た。今までがんじょうにかぶっていた頭巾《ずきん》をはねのけると、眼界は急にはるばると広がって見える。
 なんという広大なおごそかな景色だ。胆振《いぶり》の分水嶺から分かれて西南をさす一連の山波が、地平から力強く伸び上がってだんだん高くなりながら、岩内の南方へ走って来ると、そこに図らずも陸の果てがあったので、突然水ぎわに走りよった奔馬が、そろえた前脚《まえあし》を踏み立てて、思わず平頸《ひらくび》を高くそびやかしたように、山は急にそそり立って、沸騰せんばかりに天を摩している。今にもすさまじい響きを立ててくずれ落ちそうに見えながら、何百万年か何千万年か、昔のままの姿でそそり立っている。そして今はただ一色の白さに雪でおおわれている。そして雲が空を動くたびごとに、山は居住まいを直したかのように姿を変える。君は久しぶりで近々とその山をながめるともう有頂天になった。そして余の事はきれいに忘れてしまう。
 君はただいちずにがむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見える楡《にれ》の切り株の所まで腰から下まで雪にまみれてたどり着くと、君はそれに兵隊長靴《へいたいながぐつ》を打ちつけて足の雪を払い落としながらたたずむ。そして目を据《す》えてもう一度雪野の果てにそびえ立つ雷電峠を物珍しくながめて魅入られたように茫然《ぼうぜん》となってしまう。幾度見てもあきる事のない山のたたずまいが、この前見た時と相違のあるはずはないのに、全くちがった表情をもって君の目に映って来る。この前見に来た時は、それは厳冬の一日のことだった。やはりきょうと同じ所に立って、凍える手に鉛筆を運ぶ事もできず、黙ったまま立って見ていたのだったが、その時の山は地面から静々と盛り上がって、雪雲に閉ざされた空を確《し》かとつかんでいるように見えた。その感じは恐ろしく執念深く力強いものだった。君はその前に立って押しひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]られるような威圧を感じた。きょう見る
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