かにつけてすぐ暗い心になってしまう。
「絵がかきたい」
君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかきいだいているのだ。その望みをふり捨ててしまえる事なら世の中は簡単なのだ。
恋――互いに思い合った恋と言ってもこれほどの執着はあり得まいと君自身の心を憐《あわ》れみ悲しみながらつくづくと思う事がある。君の厚い胸の奥からは深いため息が漏れる。
雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、配縄《はいなわ》の繕いをしたりしていると、どうかした拍子にみんなが仕事に夢中になって、むつまじくかわしていた世間話すら途絶えさして、黙りこんで手先ばかりを忙《せわ》しく働かすような時がある。こういう瞬間に、君は我れにもなく手を休めて、茫然《ぼうぜん》と夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出している事がある。この山とあの山との距《へだた》りの感じは、界《さかい》の線をこういう曲線で力強くかきさえすれば、きっといいに違いない、そんな事を一心に思い込んでしまう。そして鋏《はさみ》を持った手の先で、ひとりでに、想像した曲線をひざの上に幾度もかいては消し、かいては消ししている。
またある時は沖に出て配縄をたぐり上げるだいじな忙《せわ》しい時に、君は板子の上にすわって、二本ならべて立てられたビールびんの間から縄をたぐり込んで、釣《つ》りあげられた明鯛《すけそう》がびんにせかれるために、針の縁《えん》を離れて胴の間にぴちぴちはねながら落ちて行くのをじっと見やっている。そしてクリムソンレーキを水に薄く溶かしたよりもっと鮮明な光を持った鱗《うろこ》の色に吸いつけられて、思わずぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と手の働きをやめてしまう。
これらの場合はっ[#「はっ」に傍点]と我れに返った瞬間ほど君を惨《みじ》めにするものはない。居眠りしたのを見つけられでもしたように、君はきょとん[#「きょとん」に傍点]と恥ずかしそうにあたりを見回して見る。ある時は兄上や妹さんが、暗まって行く夕方の光に、なお気ぜわしく目を縄《なわ》によせて、せっせ[#「せっせ」に傍点]とほつれを解いたり、切れ目をつないだりしている。ある時は漁夫たちが、寒さに手を海老《えび》のように赤くへし曲げながら、息せき切って配縄《はいなわ》をたくし上げている。君は子供のように思わず耳もとまで赤面する。
「なんというだらし[#「だらし」に傍点]のない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭《むち》うってくれる。しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。生まれから言っても、今までの運命から言っても、おれは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父のもとで調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。おれから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。そう思っているおれ自身の事だ。おれはほんとうに悲しい男だ。親父《おやじ》にも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんなふうに過ごしたらおれはほんとうにおれらしい生き方ができるのだろう」
そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしり[#「どっしり」に傍点]と男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。
やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらで擦《こす》り合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして配縄《はいなわ》の引き上げにかかった。
西に舂《うすず》きだすと日あしはどんどん歩みを早める。おまけに上のほうからたるみなく吹き落として来る風に、海面は妙に弾力を持った凪《な》ぎ方をして、その上
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