を霰《あられ》まじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手をまっかにしながら、氷点以下の水でぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]ぬれた配縄をその一端からたぐり上げ始める。三間四間置きぐらいに、目の下二尺もあるような鱈《たら》がぴちぴちはねながら引き上げられて来る。
三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁《ぼくじゅう》を加えた牛乳のようにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて、忙《せわ》しく配縄《はいなわ》を上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見渡すのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない末梢《まっしょう》をさびしくさらしているのだ。
君たちの船は、海風が凪《な》ぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、艪《ろ》を押して陸地を目がける。晴れては曇る雪時雨《ゆきしぐれ》の間に、岩内《いわない》の後ろにそびえる山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌をうたいつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂をつなぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、うわさとりどりに汀《みぎわ》に立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。
これも牛乳のような色の寒い夕靄《ゆうもや》に包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の突先《とっさき》にある灯台の灯《ひ》が明滅して船路を照らし始める。毎日の事ではあるけれども、それを見ると、君と言わず人々の胸の中には、きょうもまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでにわき出して来て、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌は一段と勇ましくなって、君の父上は船の艫《とも》に漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。
だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯の灯《ひ》のほかには、まだ灯火もともさずに黒くさびしく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、けさと同様に女たちがかしこここにいくつかの固い群れになって、石ころのようにこちん[#「こちん」に傍点]と立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足もとに行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。
帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんと汀《みぎわ》に近寄って行く。海産物会社の印袢天《しるしばんてん》を着たり、犬の皮か何かを裏につけた外套《がいとう》を深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるそのあたりを目がけて、君の兄上が手慣れたさばき[#「さばき」に傍点]でさっ[#「さっ」に傍点]と艫綱《ともづな》を投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っぱられる。船はしきりと上下する舳《へさき》に波のしぶきを食いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れ切った魚のように黒く横たわって動かなくなる。
漁夫たちは艪《ろ》や舵《かじ》や帆の始末を簡単にしてしまうと、舷《ふなべり》を伝わって陸におどり上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中に猿《ましら》のように飛び込んで行く。そしてまだ死に切らない鱈《たら》の尾をつかんで、礫《こいし》のように砂の上にほうり出す。浜に待ち構えている男たちは、目にもとまらない早わざで数を数えながら、魚を畚《もっこ》の中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の数取《かずと》り人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日ひっそりかん[#「ひっそりかん」に傍点]としていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがににぎやかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちの或《あ》る者まで男といっしょになってけんか腰に物を言いつのる。
しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、忙《せわ》しく目を見かわし、言葉をかわす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒された砂と、海藻《かいそう》と小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちはあとをも見ずにまた他の漁船のほうへ走って行く。
こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
夕焼けもなく日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れて、雪は紫に、灯《ひ》は光なくただ赤くば
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