また尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行く。ある者は死があまり無頓着《むとんじゃく》そうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢にふるまおうとする。と鬼一口だ。もうその人は地の上にはいない。ある者は年とともにいくじがなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく目に映り始める。そしてそれに近寄る冒険を躊躇《ちゅうちょ》する。そうすると死はやおら物憂《ものう》げな腰を上げて、そろそろとその人に近寄って来る。ガラガラ蛇《へび》に見こまれた小鳥のように、その人は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない。人の生きて行く姿はそんなふうにも思いなされる。実にはかないともなんとも言いようがない。その中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対してけんかをしかけんばかりの切羽《せっぱ》つまった心持ちで出かけて行く。陸の上ではなんと言っても偽善も弥縫《びほう》もある程度までは通用する。ある意味では必要であるとさえも考えられる。海の上ではそんな事は薬の足《た》しにしたくもない。真裸な実力と天運ばかりがすべての漁夫の頼みどころだ。その生活はほんとに悲壮だ。彼らがそれを意識せず、生きるという事はすべてこうしたものだとあきらめをつけて、疑いもせず、不平も言わず、自分のために、自分の養わなければならない親や妻や子のために、毎日毎日板子一枚の下は地獄のような境界に身を放《な》げ出して、せっせ[#「せっせ」に傍点]と骨身を惜しまず働く姿はほんとうに悲壮だ。そして惨《みじ》めだ。なんだって人間というものはこんなしがない[#「しがない」に傍点]苦労をして生きて行かなければならないのだろう。
 世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とは言うまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二三百万円の富を祖先から受け嗣《つ》いで、小樽《おたる》には立派な別宅を構えてそこに妾《めかけ》を住まわせ、自分は東京のある高等な学校をともかくも卒業して、話でもさせればそんなに愚鈍にも見えないくせに、一年じゅうこれと言ってする仕事もなく、退屈をまぎらすための行楽に身を任せて、それでも使い切れない精力の余剰を、富者の贅沢《ぜいたく》の一つである癇癪《かんしゃく》に漏らしているのがある。君はその男をよく知っている。小学校時代には教室まで一つだったのだ。それが十年かそこらの年月の間に、二人の生活は恐ろしくかけ隔たってしまったのだ。君はそんな人たちを一度でもうらやましいと思った事はない。その人たちの生活の内容のむなしさを想像する充分の力を君は持っている。そして彼らが彼らの導くような生活をするのは道理があると合点がゆく。金があって才能が平凡だったら勢いああしてわずかに生の倦怠《けんたい》からのがれるほかはあるまいとひそかに同情さえされぬではない。その人たちが生に飽満して暮らすのはそれでいい。しかし君の周囲にいる人たちがなぜあんな恐ろしい生死の境の中に生きる事を僥倖《ぎょうこう》しなければならない運命にあるのだろう。なぜ彼らはそんな境遇――死ぬ瞬間まで一分の隙《すき》を見せずに身構えていなければならないような境遇にいながら、なぜ生きようとしなければならないのだろう。これは君に不思議ななぞのようなここちを起こさせる。ほんとうに生は死よりも不思議だ。
 その人たちは他人眼《よそめ》にはどうしても不幸な人たちと言わなければならない。しかし君自身の不幸に比べてみると、はるかに幸福だと君は思い入るのだ。彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。彼らはきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]とあきらめをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住する事ができないでいる。君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君のがんじょうな力強い肉体と精力とを提供している。君の父上のかりそめの風邪《かぜ》がなおって、しばらくぶりでいっしょに漁《りょう》に出て、夕方になって家に帰って来てから、一家がむつまじくちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台のまわりを囲んで、暗い五|燭《しょく》の電燈の下で箸《はし》を取り上げる時、父上が珍しく木彫のような固い顔に微笑をたたえて、
 「今夜ははあおまんま[#「おまんま」に傍点]がうめえぞ」
と言って、飯茶わんをちょっと押しいただくように目八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんと言っても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活を決して悔やんでいるわけではないのだ。それにも係わらず、君は何
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