ら吹き起こる‥‥その物すさまじさ。
君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵《かじ》を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になる事のできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた。岸から打ち上げる目標の烽火《のろし》が紫だって暗黒な空の中でぱっ[#「ぱっ」に傍点]とはじけると、※[#「※」は「髟がしら+參」、第4水準2−93−26、62−5]々《さんさん》として火花を散らしながら闇《やみ》の中に消えて行く。それを目がけて漁夫たちは有る限りの艪《ろ》を黙ったままでひた漕《こ》ぎに漕いだ。その不思議な沈黙が、互いに呼びかわす惨《むごた》らしい叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。
船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになった。やがてあらしの間にも大砲のような音が船まで聞こえて来た。と思うと救助縄《きゅうじょなわ》が空をかける蛇《へび》のように曲がりくねりながら、船から二三段隔たった水の中にざぶり[#「ざぶり」に傍点]と落ちた。漁夫たちはそのほうへ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた。縄はあやまたず船に届いた。
二三人の漁夫がよろけころびながらその縄のほうへ駆け寄った。
音は聞こえずに烽火《のろし》の火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてはすぐ散って行く。
船は縄に引かれてぐんぐん陸のほうへ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ波濤《はとう》の中を、互いにしっかり[#「しっかり」に傍点]しがみ合った二|艘《そう》の船は、半分がた水の中をくぐりながら、半死のありさまで進んで行った。
君は始めて気がついたように年老いた君の父上のほうを振り返って見た。父上はひざから下を水に浸して舵座《かじざ》にすわったまま、じっ[#「じっ」に傍点]と君を見つめていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見つめていたのだ。そう思うと君はなんとも言えない骨肉の愛着にきびしく捕えられてしまった。君の目には不覚にも熱い涙が浮かんで来た。君の父上はそれを見た。
「あなたが助かってよござんした」
「お前が助かってよかった」
両人の目には咄嗟《とっさ》の間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこのうれしい言葉を語る目から互い互いの目は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち列《つら》なっていた。水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駆け回るありさまもまざまざと目に映った。
なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、艪《ろ》をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながら漕《こ》ぎ始めた。涙があとからあとからと君の頬《ほお》を伝って流れた。
唖《おし》のように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て、君の声に応じた。艪は梭《ひ》のように波を切り破って激しく働いた。
岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した感じに襲われて来た。
君はもう一度君の父上のほうを見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
やがて船底にじゃりじゃり[#「じゃりじゃり」に傍点]と砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった。‥‥君はそのあとを知らない。
七
君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらい[#「かっぱらい」に傍点]のように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶる[#「しゃぶる」に傍点]けれども、ほどなくその生は
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