も早く走って行く。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は傾《かし》いだまま矢よりも早く走っている。君の頭はかあん[#「かあん」に傍点]としてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
 怒濤《どとう》。白沫《しらあわ》。さっさっと降りしきる雪。目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった。
 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚《ハルシネーション》だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
 「死にはしないぞ」
 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
 君たちがほんとうに一|艘《そう》の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。
 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
 やがて行く手の波の上にぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と雷電峠の突角が現われ出した。山脚《やまあし》は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足|爪立《つまだ》てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
 「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵《かじ》を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩《なだれ》にも打たせんなよう‥‥」
 そう言う声がてんでん[#「てんでん」に傍点]に人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪《ふぶき》の間からまっ黒に天までそそり立つ断崕《だんがい》に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、艪《ろ》を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
 陸地に近づくと波はなお怒る。鬣《たてがみ》を風になびかして暴《あ》れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫《ひまつ》になり、飛沫はしぶき[#「しぶき」に傍点]になり、しぶき[#「しぶき」に傍点]は霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫《しらあわ》を五丈も六丈も高く飛ばして、反《そ》りを打ちながら海の中にどっ[#「どっ」に傍点]とくずれ込む。
 その猛烈な力を感じてか、断崕《だんがい》の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との縁《えん》から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。巓《いただき》を離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星《いんせい》のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾《おおすだれ》だ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重《いおえ》の大波はたちまちおい退けられて漣《さざなみ》一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方か
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