に顔を見合わせながら、一度にやっ[#「やっ」に傍点]と声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない。次の瞬間にはわっ[#「わっ」に傍点]と声をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。
 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒《ふんぬ》の中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間は塵《ちり》ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにも係わらず君たちは頑固《がんこ》に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした。
 舷《ふなべり》を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとした。ある者は艪《ろ》を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓《みずびしゃく》を、あるものは長いたわし[#「たわし」に傍点]の柄を、何ものにも換えがたい武器のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を漕《こ》いだり、浸水《あか》をかき出したりした。
 吹き落ちる気配《けはい》も見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷《すばや》さで方角を嗅《か》ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの鉢《はち》の中ですりまぜたように渾沌《こんとん》としてしまった。
 薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
 「死にはしないぞ」――そんなはめ[#「はめ」に傍点]になってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、57−17]《こめかみ》のへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけがはっきり[#「はっきり」に傍点]君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った。
 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかり[#「すっかり」に傍点]無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも納《い》れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。
 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
 船! ‥‥船!
 濃い吹雪《ふぶき》の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の背《そびら》に乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一|艘《そう》の船!
 それを見ると何かが君の胸をどきん[#「どきん」に傍点]と下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎《な》えてしまっていた。
 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪《ふぶき》を隔てた事だから、乗り組みの人の数もはっきり[#「はっきり」に傍点]とは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊《はくあ》のような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、舳《へさき》は依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢より
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