れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。
君は咄嗟《とっさ》に身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった。人々は騒ぎ立って艪《ろ》を構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった。帆の自由である限りは金輪際《こんりんざい》船を顛覆《てんぷく》させないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船足のとまった船ではもう舵《かじ》もきかない。船は波の動揺のまにまに勝手放題に荒れ狂った。
第一の紆濤《うねり》、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆からかばってくれた。しかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。
雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い波頭《なみがしら》が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫《とも》を波のほうへ向ける事も得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりを打って※[#「※」は「革へん+堂」、第3水準1−93−80、54−18]《どう》とくずれこんだ。
はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその時おそく、君らはもうまっ白な泡《あわ》に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして顛覆《てんぷく》した船体にしがみつこうともがいていた。見ると君の目の届く所には、君の兄上が頭からずぶぬれになって、ぬるぬると手がかりのない舷《ふなべり》に手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言った。兄上も大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きな口をあくのが見えるだけで、声は少しも聞こえて来ない。
割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そして君は、着込んだ厚衣《あつし》の芯《しん》まで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどの忙《せわ》しさで、目と鼻ぐらいの近さに押し迫った死からのがれ出る道を考えた。心の上澄《うわず》みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ちついていた。それは君自身にすら物すごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして目あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ち付きに落ち付いて、「死にはしないぞ」とちゃん[#「ちゃん」に傍点]ときめ込んでいるのがかえって薄気味悪かった。それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった。
君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷《ふなべり》のほうへ集まって来た。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
「それ今ひと息だぞっ」
君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面《よこつら》に大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船はくるり[#「くるり」に傍点]と裏返った。舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、すっぽり[#「すっぽり」に傍点]と氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかししこたま[#「しこたま」に傍点]着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆《てんぷく》するにきまっている。生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏捷《びんしょう》な働きをする。五人の中の二人は咄嗟《とっさ》に反対の舷に回った。そして互い
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