ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、矯飾《きょうしょく》もなく、不平もなく、素直に受け取り、軛《くびき》にかかった輓牛《ひきうし》のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。
こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり舵座《かじざ》にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。
六
それはある年の三月に、君が遭遇した苦《にが》い経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波濤《はとう》と戦いながら配縄《はいなわ》をたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配縄を切って捨てさせなければならなくなった。
「またはあ銭《ぜに》こ海さ捨てるだ」
と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて配縄《はいなわ》を切ってしまった。
海の上はただ狂い暴《あ》れる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまちまっ白な泡《あわ》の山に変じて、その巓《いただき》が風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる。目も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波からのがれたり、さながら風の怒りをいどむ小悪魔のように、面憎《つらにく》く舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落として来た雪のちぎれ[#「ちぎれ」に傍点]は、大きな霧のかたまり[#「かたまり」に傍点]になって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く。
雪と浸水《あか》とで糊《のり》よりもすべる船板の上を君ははうようにして舳《へさき》のほうへにじり寄り、左の手に友綱の鉄環《かなわ》をしっかり[#「しっかり」に傍点]と握って腰を据《す》えながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は大竿《おおざお》を風上になった舷《ふなべり》から二本突き出して、動かないように結びつける。船の顛覆《てんぷく》を少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、舵座《かじざ》にいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっている。そしてその間にもしっきり[#「しっきり」に傍点]なしに打ち込む浸水《あか》を急がしく汲《く》んでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙に上《うわ》ずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳には物すごくも心強くも響いて来る。
「おも舵っ」
「右にかわすだってえば」
「右だ‥‥右だぞっ」
「帆綱をしめろやっ」
「友船は見えねえかよう、いたらくっつけ[#「くっつけ」に傍点]」やーい
どう吹こうとためらっていたような疾風がやがてしっかり[#「しっかり」に傍点]方向を定めると、これまでただあて[#「あて」に傍点]もなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤《うねり》に変わって行った。言葉どおりに水平に吹雪《ふぶ》く雪の中を、後ろのほうから、見上げるような大きな水の堆積《たいせき》が、想像も及ばない早さでひた押しに押して来る。
「来たぞーっ」
緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、艫《とも》が薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船はひとあおりあおって、物すごい不動から、奈落《ならく》の底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った。同時に耳に余る大きな音を立てて、紆濤《うねり》は屏風倒《びょうぶだお》しに倒れかえる。わきかえるような泡《あわ》の混乱の中に船をもまれながら行く手を見ると、いったんこわれた波はすぐまた物すごい丘陵に立ちかえって、目の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く。
ほっ[#「ほっ」に傍点]と安堵《あんど》の息をつく隙《すき》も与えず、後ろを見ればまた紆濤《うねり》だ。水の山だ。その時、
「あぶねえ」
「ぽきりっ[#「ぽきりっ」に傍点]」
というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根もとから折れて横倒しに倒
前へ
次へ
全29ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング