ら突然現世に帰った人のように、君の心はまだ夢ごこちで、芸術の世界と現実の世界との淡々しい境界線をたどっているのだ。そして君は歩きつづける。
 いつのまにか君は町に帰って例の調剤所の小さな部屋《へや》で、友だちのKと向き合っている。Kは君のスケッチ帳を興奮した目つきでかしこここ見返している。

 「寒かったろう」
とKが言う。君はまだほんとうに自分に帰り切らないような顔つきで、
 「うむ。‥‥寒くはなかった。‥‥その線の鈍っているのは寒かったからではないんだ」
と答える。
 「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駆けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。きょうのはみんな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」
 「実際の山の形にくらべて見たまえ。‥‥僕は親父《おやじ》にも兄貴にもすまない」
と君は急いで言いわけをする。
 「なんで?」
 Kはけげんそうにスケッチ帳から目を上げて君の顔をしげしげと見守る。
 君の心の中には苦《にが》い灰汁《あくじる》のようなものがわき出て来るのだ。漁にこそ出ないが、ほんとうを言うと、漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。きょうも、君が一日を絵に暮らしていた間に、君の家では家じゅうで忙《いそが》しく働いていたのに違いないのだ。建網《たてあみ》に損じの有る無し、網をおろす場所の海底の模様、大釜《おおがま》を据《す》えるべき位置、桟橋《さんばし》の改造、薪炭《しんたん》の買い入れ、米塩の運搬、仲買い人との契約、肥料会社との交渉‥‥そのほか鰊漁《にしんりょう》の始まる前に漁場の持ち主がしておかなければならない事は有り余るほどあるのだ。
 君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、兄妹《きょうだい》でも、隣近所の人でも――ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。君の考えどおりをその人たちの頭の中にたんのう[#「たんのう」に傍点]ができるように打ちこむというのは思いも及ばぬ事だ。
 君は理屈ではなんら恥ずべき事がないと思っている。しかし実際では決してそうは行か
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