かたく、また他の部分は気化した色素のように透明で消えうせそうだ。夕方に近づくにつれて、やや煙り始めた空気の中に、声も立てずに粛然とそびえているその姿には、くんでもくんでも尽きない平明な神秘が宿っている。見ると山の八合目と覚しい空高く、小さな黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは一羽の大鷲《おおわし》に違いない。目を定めてよく見ると、長く伸ばした両の翼を微塵《みじん》も動かさずに、からだ全体をやや斜めにして、大きな水の渦《うず》に乗った枯れ葉のように、その鷲は静かに伸びやかに輪を造っている。山が物言わんばかりに生きてると見える君の目には、この生物はかえって死物のように思いなされる。ましてや平原のところどころに散在する百姓家などは、山が人に与える生命の感じにくらべれば、惨《みじ》めな幾個かの無機物に過ぎない。
 昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催して来た。それとともに肌身《はだみ》に寒さも加わって来た。落日にいろどられて光を呼吸するように見えた雲も、煙のような白と淡藍《うすあい》との陰日向を見せて、雲とともに大空の半分を領していた山も、見る見る寒い色に堅くあせて行った。そして靄《もや》とも言うべき薄い膜《まく》が君と自然との間を隔てはじめた。
 君は思わずため息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、ばたん[#「ばたん」に傍点]と音を立ててスケッチ帳を閉じて、鉛筆といっしょにそれをふところに納めた。凍《い》てた手はふところの中の温《ぬく》みをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。半日立ち尽くした足は、動かそうとすると電気をかけられたようにしびれていた。ようようの事で君は雪の中から爪先《つまさき》をぬいて一歩一歩本道のほうへ帰って行った。はるか向こうを見ると山から木材や薪炭《しんたん》を積みおろして来た馬橇《ばそり》がちらほらと動いていて、馬の首につけられた鈴の音がさえた響きをたててかすかに聞こえて来る。それは漂浪の人がはるかに故郷の空を望んだ時のようななつかしい感じを与える。その消え入るような、さびしい、さえた音がことになつかしい。不思議な誘惑の世界か
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