自分の一人むすこの悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつてきげんのいい顔を見せた事のないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、きぱきぱ[#「きぱきぱ」に傍点]と盾《たて》をつく様子もなく、父の心と君の心とをうかがうように声のするほうと君のほうとを等分に見る。
 君は長座をしたのがKの父の気にさわったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。
 「じゃ僕は昼の弁当を食わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済まして来たまえ」
と君は言わなければならなかった。
 Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言う事を非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君をかえすのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心に染《し》み渡《わた》ったしるし[#「しるし」に傍点]だった。君はひとりになると、だんだん暗い心になりまさるばかりだった。
 それでも夕飯という声を聞き、戸のすきから漏れる焼きざかなのにおいをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーブに寄り添いながら、椅子《いす》に腰かけたままのひざの上でそれを開いた。
 北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにへぎ[#「へぎ」に傍点]で包んだ大きな握り飯はすっかり[#「すっかり」に傍点]凍《い》ててしまっている。春立《はるだ》った時節とは言いながら一日寒空に、切り株の上にさらされていたので、飯粒は一粒一粒ぼろぼろに固くなって、持った手の中からこぼれ落ちる。試みに口に持って行ってみると米の持つうまみはすっかり奪われていて、無味な繊維のかたまり[#「かたまり」に傍点]のような触覚だけが冷たく舌に伝わって来る。
 君の目からは突然、君自身にも思いもかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。じっ[#「じっ」に傍点]とすわったままではいられないような寂寥《せきりょう》の念がまっ暗に胸中に広がった。
 君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帳をふと
前へ 次へ
全57ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング