逸は早く寝入ってしまうに限ると思って夜着の中に顔を埋めた。寝入りばなの咳がことに邪魔になった。
 純次が鼻緒のゆるんだ下駄を引きずってやってくる音がした。清逸は今夜はもう相手になっていたくなかったので寝入ったことにしていようと思った。
 思いやりもなく荒々しく引戸を開けて、ぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と締めきると、錠《じょう》をおろすらしい音がした。純次は必要もない工夫のようなことをして得意でいるのだが、その錠前もおそらくその工夫の一つなのだろう。こんな空家同然な離れに錠前をかけて寝る彼の心持が笑止だった。
 やがて純次は、清逸の使いふるしの抽出《ひきだし》も何もない机の前に坐った。机の上には三分|芯《じん》のラムプがホヤの片側を真黒に燻《くすぶ》らして暗く灯っていた。机の片隅には「青年文」「女学雑誌」「文芸倶楽部」などのバック・ナムバアと、ユニオンの第四読本と博文館の当用日記とが積んであるのを清逸は見て知っていた。机の前の壁には、純次自身の下手糞な手跡で「精神一到何事不成陽気発所金石亦透《せいしんいっとうなにごとかならざらんようきのはっするところきんせきもまたとおる》」と半紙に書いて貼ってあった。
 純次は博文館の日記を開いて鉛筆で何か書いているらしかったが、もぞもぞと十四五字も書いたと思う間もなく、ぱたんとそれを伏せて、吐きだすごとく、
「かったいぼう」
 とほざいて立ちあがった。そして手取り早く巻帯を解くと素裸かになって、ぼりぼりと背中を掻《か》いていたが、今まで着ていた衣物を前から羽織って、ラムプを消すやいなや、ひどい響を立てて床の中にもぐりこんだ。
 純次はすぐ鼾《いびき》になっていた。
 清逸の耳にはいつまでも単調な川音が聞こえつづけた。
     *    *    *
 何んという不愛想な人たちだろうと思って、婆やはまたハンケチを眼のところに持っていった。
 上りの急行列車が長く横たわっているプラットフォームには、乗客と見送人が混雑して押し合っていた。
 西山さんは機関車に近い三等の入口のところに、いつもとかわらない顔つきをしていつもとかわらない着物を着て立っていた。鳥打帽子の袴なしで。そのまわりを白官舎の書生さんをはじめ、十四五人の学生さんたちが取りまいて、一人が何かいうかと思うと、わーっわーっと高笑いを破裂させていた。夜学校から見送りに来たらしい男の子が一人と女の子が二人、少し離れた所で人ごみに揉《も》まれながら、それでも一心にその人たちの様子を見つめていた。三隅さんのお袋とおぬいさんとは、妹を連れてきたおたけさんと一かたまりになって、混雑を避けるように待合室の外壁に身をよせて立っていた。西山さんはその人たちを見向こうともしなかった。ほかの書生さんたちもそういう見送人に対して遠慮するらしい気振《けぶり》も見せようとはしない。
 婆やはもう一度西山さんをつかまえて何かもっと物をいいたいと思って、書生さんたちの後から隙をうかがっているけれども、容易にその機会は来そうもなかった。人の心も察しないで何んという不愛想な人たちだろうと思って腹立たしかった。その時軟かく自分の肩に手を置く人があった。振り向いてみるとおぬいさんだった。娘心はおびただしい群衆のぞよめきに軽く酔ったらしく頬のあたりを赤くしていた。
「あなたそんな所にいるとあぶのうございます。こちらにいらっしゃいな」
 そういっておぬいさんは誘ってくれた。婆やはそれをしお[#「しお」に傍点]に諦《あきら》めて、おぬいさんにやさしくかばわれながら三隅さんのお袋の所にいっしょになって、相対《あいたい》よりも少し自分を卑下《ひげ》したお辞儀《じぎ》をした。おぬいさんは婆やの涙ぐんだ眼を見るといっそう赤くなったようだった。婆やは、近ごろの若い人に似ぬ何んといういとしい娘さんだろうと思った。とにかく婆やは黙ってはいられなかった。いいたいことは山ほどあるのだが、書生さん相手では、婆やのいうことなどは上の空に聞き流されるのだから腹が立つばかりだった。誰かに聞いてもらいたいと思っている矢先だったので、婆やは何事をおいても能弁《のうべん》になった。
「星野さんはお留守だし、西山さんはきゅうに東京にな、お発《た》ちなさるし、婆やは淋しいこんです。いい人でな、あなた。あんな人並外れて大きいがに、赤坊のような人でなもし。婆や婆やたらいって、大事にしておくれなさったが……ま、行く行くは皆ああして羽根が生えて飛んでいかれるは定《じょう》なれど、何んとやら悲しゅうてなもし。私もお知りのたんだ一人の息子を二十九年になもし、台湾で死なしてから、一人ぽっちになりましたけに、世話をしとる若い衆がどれも我が子同様に思われてな、すまんことじゃけれどなもし。それゆえ離れるがどうもなりません。……それがなもし、若い衆の不思議というたら、家《うち》を出るさいには、私の頬げたをこう敲《たた》いてな、あなた『婆やきつい世話』……ではのうて『婆やいろいろに世話をかけてありがとう。達者でいてくれや、東京に行ったら甘いものを送るぞよ』……」
 婆やは西山さんの口調を真似《まね》ようとしたら、涙で物がいえなくなってしまった。ところが次のことを考えると腹が立ってきた。それでまた言葉がつげた。
「と涙の出るようなことをいうてだったが、ここに来たら最後、見なさるとおり、婆やなどは眼にも入らぬげでなもし」
 婆やはそこにいる四人に万遍《まんべん》なく聞き取らせようとするので容易でなかった。肥った身体を通りすがりの人にこづかれながら、手真似をまじえて大きな声になった。
 おたけさんが我慢がしきれなくなったらしく、きゅうに口もとに派手《はで》な模様の袖口を持っていった。三隅さんのお袋はさすがに同情するらしく神妙にうなずいていたが、おぬいさんもだいぶ怪しかった。婆やは今度はおたけさんの方に鉾《ほこ》を向けた。
「あなたも年をとってみるとこの味は分ってきなさるが……」
 皆まで聞かずにおたけさんはとうとう顔を真赤にして笑いだしてしまったが、ふと眼を西山の方にやると驚いたらしく、
「まあ新井田の奥さんが」
 と仰山《ぎょうさん》にいった。
 ガンベさんが取りなすように三十|恰好《かっこう》に見える立派な奥さん風の婦人と西山さんとの間にいて、ほかの書生さんたちは少し輪を大きくしてそれを傍観していた。奥さんというのは西山さんに何か餞別物を渡そうとしているところだった。そこらにいる群衆の眼は申し合わせたように奥さんの方に吸い寄せられていた。
 婆やも驚いておたけさんに尋ねた。
「あれはどなただなもし」
「あなた知らないの。あれがそら渡瀬さんのよく行く新井田さんの奥さんなのよ」
 とおたけさんは奥さんから眼を放さない。重そうな黒縮緬《くろちりめん》の羽織が、撫《な》で肩の円味をそのままに見せて、抜け上るような色白の襟足《えりあし》に、藤色の半襟がきちんとからみついて手絡《てがら》も同じ色なのが映《うつ》りよく似合っていた。着物の地や柄は婆やにはよく見えなかったが、袖裏に赤いものがつけてあるのはさだかに知れた。斜《なな》め後ろから見ただけでも珍《めず》らしく美しそうな人に思われた。
 駅夫《えきふ》が鈴を鳴らして構内を歩きまわりはじめた。それとともに場内は一時にざわめきだして、人々はひとりでに浮足になった。婆やはもう新井田の奥さんどころではなかった。「危ない」と後ろからかばってくれたおぬいさんにも頓着《とんちゃく》せず、一生懸命に西山さんの方へと人ごみの中を泳いだ。
 人波の上に頭だけは優《ゆう》に出そうな大きな西山さんがこっちに向いて近づいてきた。婆やはさればこそと思いながら寄っていって取りすがろうとするのを西山さんは見も返らずにどんどん三隅さんたちの方に行って、鳥打帽子を取った。そして大きな声でこう挨拶をした。
「じゃ行ってきます。万事ありがとうございました。さようなら。御大事に」
 婆やはつくづく西山さんが恨《うら》めしくなった。あれほど長い間世話を焼かせておきながら、やはり若い娘の方によけい未練が残るとみえる。齢を取るというのは何んという情ないことだろう。……婆やは西山さんから顔を背《そむ》けてしまった。
 いきなり痛いほど婆やの左の肩を平手ではたくものがいた。それが西山さんだった。
「じゃ婆やいよいよお別れだ。寒くなるから体を大事にするんだ」
 そういうわけだったのかと思うと婆やはありがたいほど嬉しくなって、西山さんの手を握って何んにもいわずにお辞儀をした。
「もういいから」
 西山さんは手を振りきってどんどん列車の方に行く。婆やはそのすぐあとから楽々と跟《つ》いていくことができた。
 人見さんが列車の窓から、
「おいここだ、ここだ」
 といって西山さんを招いていた。
「危《あぶ》ないよ婆さん」
 知らない学生が婆やを引きとめた。婆やは客車の昇降口のすぐそばまで来てまごついていたのだ。そこから人見さんが急いで降りてきた。
 見ると人見さんの顔を出していた窓の所には西山さんの顔があった。がやがや[#「がやがや」に傍点]いい罵《ののし》る人ごみの中を駅員があっちでもこっちでも手を上げたり下げたりしたかと思うと、婆やは飛び上らんばかりにたまげさせられた。汽笛がすぐ側で鳴りはためいたのだ。婆やは肥《ふと》った身体をもみまくられた。手の甲をはげしく擦《こす》る釘のようなものを感じた。「あ痛いまあ」といって片手で痛みを押えながらも、延《の》び上って西山さんを見ようとした。と押しあいへしあいされながら婆やの体はすうっ[#「すうっ」に傍点]と横の方に動いていった。それはしかしそうではなかった。汽車が動きだしたのだった。窓という窓から突きだされたたくさんな首の中に、西山さんも平気な顔をして、近眼鏡を光らせながら白い歯を出して笑っていた。それがみるみる遠ざかって見えなくなってしまった。それだけのことだった。
 三隅さんのお袋とおぬいさんとが親切に介抱してくれるので、婆やは倒れもせずに改札口を出たが、きゅうに張りつめていた気がゆるんで涙がこみあげてきそうになった。送りに来た書生さんたちはと見ると、まるでのんきな風で高笑いなどをしながら遠くから冗談口を取りかわしたりして、思い思いに散らばっていってしまった。何んの気で見送りに来たのか分らないような人たちだと婆やは思った。白官舎の人たちも、柿江さんは夜学校の生徒の手を引いて行ってしまうし、そのほかの人の姿はもうどこにも見えなかった。
 停車場前のアカシヤ街道には街燈がともっていた。おたけさんとはぐれたので婆やは三隅さん母子と連れ立って南を向いて歩いた。
「星野さんがお帰りてから何んとかお便りがありましたか」
 と大通り近くに来てからお袋が婆やに尋ねた。
「何があなた。皆んな鉄砲丸のような人たちでな」
 婆やはそう不平を訴えずにいられなかった。
「私の方にもありませんのよ」
 とおぬいさんがいった。
 大通りから婆やは一人になった。これでようやく帰りついたと思うと、書生さんたちはとうの昔に帰ってきていて、早く飯にしろとせがみたてるに違いない。これから支度をするのにそう手早くできてたまることかなと婆やは思いながらもせわしない気分になって丸っこい体を転がるように急がせた。
 きゅうに手の甲がぴりぴりしだした。見ると一寸《いっすん》ばかり蚯蚓脹《みみずば》れになっていた。涙がまたなんとなく眼の中に湧いてきた。
     *    *    *
 おぬいは手さぐりで夢中に母にすがりつこうとしていたらしかった。眼をさましてみると、母は背面向《むこうむ》きになってはいるが、自分のすぐ側に、安らかな鼾《いびき》を小さくかきながら寝入っていた。
 ほっ[#「ほっ」に傍点]と安心はした。けれどもどうしてこんないやな夢ばかり見るのだろうとおぬいは情けなかった。枕紙に手をやってみるとはたしてしとどに濡れていた。夢の中で絶え入るように泣いてしまったのだから、濡れていると思ったらやはり濡れていた。眼のあたりを触ってみると
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