僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないものだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は、我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」
おぬいは眼をふさいでいたけれども、渡瀬さんが坐りなおって、頭を下げているのがよくわかった。そして切れ切れにいいだされた今の言葉がけっして出まかせでないのが一つ一つ胸にこたえた。
しかしおぬいが一たび受けた感じは容易に散りそうにはなかった。で、しかたなしにはずみ上る言葉をようやく抑えつけながら、
「ええもう何んとも思ってはいませんから……いませんから、私をこそお許しくださいまし。けれども今日は、もうこれで、お帰りを願いとうございますの」
とだけようやくいって退《の》けた。
「え、……帰ります」
渡瀬さんはそういったなり、立ち上って部屋を出た。おぬいは何かもっと和解の心を現わして、渡瀬さんの心をやすめたいと思ったけれども、何かいうのがどうしても不自然だったので何もいわないことにして、上り口まで送ってでた。
「どうか許してください」
下駄をはくと、渡瀬さんはこっちを向いてこう挨拶した。おぬいも好意をもって眼を上げた。渡瀬さんはにこにこしていた。そして意外だったのは、つぶれていない方の眼に涙がたまっているのではないかと思えたことだった。
たった一人になるとおぬいはほっ[#「ほっ」に傍点]と溜息が出た。何か自分が思いもかけない結果を渡瀬さんに与えたのではないかと思うと、自分というものが怖ろしいようだった。彼女の知らない力があって、ともすると願いもしないところに彼女を連れこんでいこうとするかにさえ感じられた。そういう時に父のいないのがこの上なく淋しかった。おぬいは障子を半ば締めたまま、こんこんと大降りになりだした往来の雪を、ぼんやりと瞬《またた》きもせずに眺めながら、渡瀬さんを送りだしたその姿勢から立ち上りえずにいた。
ややしばらくして、何という弱々しいことだと自分をたしなめて、おぬいは立ち上ると、障子を締め、その足でラムプを茶の間に運んで火をともした。時計はもう五時半近くになっていた。夕方の支度がおそくなりかけていた。
おぬいは大急ぎで書物をしまい、机を片づけ、台所に出て、白いエプロンを袂ごと胸高に締め、しばられた袂の中からようようの思いで襷《たすき》をさぐりだすと、それをつむりに潜《くぐ》らせようとしたが、華《はな》やかなその色が、夕暗の中で痛いように眼に映った。おぬいは一度のばしたその襷を、ぐちゃぐちゃに丸めて、それを柱にあてがって顔を伏せると、誰のためにとも、誰にともなく祈りたい気持でいっぱいになった。
おぬいはそうしたまま、灯もともさない台所の隅で、しばらくの間|慄《ふる》えるような胸をじっと抑えて、何んとなくそこにつき上げてくるえたいの知れない不安を逐い退けようとして佇《たたず》んでいた。
* * *
創成川を渡る時、一つ下《しも》の橋を自分と反対の方向に渡ってゆく婦人は、降りはじめた雪のためにいくらかぼんやりしていたけれども、三隅のおばさんに違いないと渡瀬は見て取った。今日こそはおぬいさん一人だぞという意識がすぐいたずららしい微笑となって彼の頬を擽《くすぐ》った。
行ってみるとおぬいさん一人らしかった。脱ぎ取った帽子の雪をその人が丁寧《ていねい》に払ってくれた。いつものとおり茶の間はストーヴでいい加減に暖まっていた。そして女世帯らしい細やかさと香《にお》いとが、家じゅうに満ちていて、どこからどこまで乱雑で薄汚ない彼の家とは雲泥《うんでい》の相違《そうい》だった。渡瀬はその茶の間にしめやかな落着きを感ずるよりも、ある強い誘惑を感じた。けれども机に向っておぬいさんと対坐すると、どうしてもいつもの彼の調子が出にくかった。道々彼が思いめぐらしてきたような気持は否応なしに押しひしゃがれそうだった。いつ見てもおぬいさんはきちんとしすぎるほどつつましく身だしなみをしていた。そんな気持でしているのではないかもしれないが、そしてそうでない証拠にはすべての挙止《ものごし》がいかにもこだわりのない自然さを持っているのだが、後れ毛一つ下げていないほどそれを清く守っているのを見ると、どこといってつけ入る隙もないように見えた。けれども、それが渡瀬にとってはかえって冒険心をそそる種になった。何、おぬいさんだって女|一疋《いっぴき》にすぎないんだ。びくびくしているがものはない。崩せるだけ崩してみてやれという気がむらむらと起ってきて、彼はいきなり胡坐《あぐら》をかきながら。
「いつものとおり胡坐をかきますよ。敲《たた》き大工の息子ですから、几帳面に長く坐っていると立てなくなりますよ」
といって思いきり彼らしい調子を上げて笑い崩した。おぬいさんはその時立って茶棚の前に行っていたが、肩越しにこちらを振り返って、別に驚きもしないようににこにこしながら「どうぞ」といった。
茶なんぞ飲むよりもおぬいさんと一分でも長く向い合っていたかった。茶はいらないというと、せっかく茶器を取りだしかけていたおぬいさんは素直にそのままそれをそこにおいて、机の座に戻ってきた。ここで彼は新井田の奥さんとおぬいさんとを眼まぐるしく心の中で比較していた。とてもだめだ、比べものなんぞになるものか。二十近い年までこんなに色気というものなしに育ってきた娘がいったいあるものだろうか。新井田の奥さんの方が顔の造作は立ち勝っているかもしれないが……待てよそういちがいにはいえないぞ。第一こっちはまるで化粧なしだ。おまけにコケトリなしだ。それだのにこの娘から滴《したた》り落ちる……滴り落ちる何んだな……滴り落ちるX、そのXの量ときたらどうだ。それがしかも今のところまるっきりむだになって滴り落ちているんだ。おぬいさんはそれを惜しいものとも思ってはいないのだ。そこにいくと新井田の奥さんの方はさもしさの限りだ。一滴落すにもこれ見よがしだ。あれで色気が出なかったら出る色気はない。中央寺の坊主のいい草ではないが珍重珍重だ。おぬいさんがあのXの全量を誰かに滴らす段になってみろ……。渡瀬は思わず身ぶるいを感じた。
まず作戦はあと廻わしにして、
「さてと、今日はどこから……」
といいながらおぬいさんを見ると、書物に見入っているとばかり思っていたその人は、潤《うるお》いの細やかなその眼をぱっちりと開けて、探るように彼を見ているのだった。渡瀬はこの不意撃ちにちょっとどぎまぎしたが、すぐ立ちなおっていかなる機会をも掴《つか》もうとした。
「おやあなた僕の顔を見ていますね。ははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
そういって彼は剽軽《ひょうきん》らしくわざと顔をつきだしてみせた。この場合あたりまえの娘ならば、真紅な顔になってはにかんでしまうか、おたけさん級の娘なら、低能じみた高笑いをして、男に隙を見せるか、悧巧《りこう》を鼻にかけた娘なら、己惚《うぬぼ》れはよしてくださいといわんばかりにつん[#「つん」に傍点]とするに極っているのだった。渡瀬はそのどれをも取りひしぐ自信を持っていた。ところがおぬいさんは顔をあからめもせず、すましもせず、高笑いもせずに、不断のとおりの心置きない表情に少しほほ笑みながら「いいえ」とだけいって、俯向《うつむ》き加減になった。
似而非物《にせもの》では断じてない。俺がいったんでは不似合だが、まず神々《こうごう》しい innocence《イノセンス》 だ。そういうことを許してもいい。十九……十九……まったくこれが十九という娘の仕業《しわざ》だろうか。渡瀬は少し憚《はばか》りながらも、まじまじとおぬいさんを眺めなおさずにはいられなくなった。骨節の延び延びとした、やや痩せぎすのしなやかさは十六七の娘という方が適当かもしれないが、争《あらそ》われないのは胸のあたりの暖かい肉づき、小鼻と生えぎわの滑かな脂肪《しぼう》だった。そしてその顔にはちょっと見よりも堅実《けんじつ》な思慮分別の色が明かに読まれた。それにしてもあまり自然に見える、子供のように神々しい無邪気。渡瀬は承知しながらもおぬいさんの齢を聞いてみたくなった。そして突然、
「失礼、あなたはいくつになりますね」
と尋ねてみた。さすがにおぬいさんは少し顔を赤らめたが、少しも隠し隔《へだ》てなく、渡瀬を信頼しきっているように、
「もう十九になりますの」
とおとなしやかに答えた。Xはつねに滴り落ちている。しかしながら渡瀬は容易にそこに近寄れないのを知らねばならなかった。そして感歎のあまり、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
と口に出してしまった。実際考えてみると、渡瀬が今まで交渉を持ったのは、多少の程度こそあれ男というものを知った娘ばかりだった。本当に男を知らない女性が、こんなに不思議なものを秘していようとはまったく思いもかけなかった。渡瀬にはその宝に触れてみる資格が取り上げられているようにさえみえた。彼は少しあっけに取られた。
「それでは始めていただきます」
そうおぬいさんが凛々《りり》しく響くような声でいって、書物をぼんやりしかけた渡瀬の前にひろげたので渡瀬はようやく我に返った。おぬいさんの復習したのは、アーヴィングの「スケッチ・ブック」の中にある、ある甘ったるい失恋の場面を取りあつかったもので、渡瀬がこの前読んで聞かせた時には、くだらない夢のようなことを、男のくせによくこうのめのめ書いたものだと思ったのだが、今日おぬいさんがそれを復習しているのを聞いてみると、あながち夢のようなことには思えなかった。誰にもっぱら聞かそうというそれは声なのだろう。どこまでも澄みきっていながら、しかも震いつきたいほどの暖かみを持ったそのしなやかな声は、悲しい物語を、見るように渡瀬の耳の奥に運んできた。始めのうちは、おぬいさんがつかえるとすぐに見てやっていたが、だんだんそんな注意は遠退いて、ほれぼれとその声に聴き入らずにはいられなくなった。おぬいの声にもしだいに熱情が加わってくるようにみえた。渡瀬は知らず知らず書物から眼を離して、自分のすぐ前にあるおぬいさんの髪、額、鼻筋、細長い眉、睫毛、物いうごとにかすかに動くやや上気した頬《ほお》の上部、それらを見るともなく見やりはじめた。すべてが何んという憎むべき蠱惑《こわく》だろう。これはやりきれない御馳走《ごちそう》だ。耳と眼とが酔ったくれていうことを聴かなくなってしまう、と渡瀬はわくわくしながら考えた。それが渡瀬には容易に専有《せんゆう》することのできない宝《たから》だと考えれば考えるほど、無体な欲求は激しくなった。教師としてこれほど信頼されているのをという後ろめたさを彼は知らず知らずだんだんに踏み越えていった。しびれるような欲望の熱感が健康すぎるほどな彼の五体をめぐり始めた。
色慾の遊戯に慣れた渡瀬には、恋愛などというしゃら[#「しゃら」に傍点]臭いものは、要するに肉の接触に衣をかけたまやかしものにすぎない。男女の間の情愛は肉をとおして後に開かれるのだと、今までの経験からも決《き》めている渡瀬には、これほど嵩《こう》じてきた恐ろしい衝動を堰《せ》きとめる力はもうなくなりかけていた。彼は顔にまで充血を感じながら、「おぬいさん逃げるなら今のうちだ。早く逃げないと僕は何をするか、自分でも分らないよ」と憫《あわ》れむがごとくに自分の前にうずくまる豊麗な新鮮な肉体に心の中でささやいたが、同時に、「逃げるなら逃げてみろ。逃げようとて逃がしてたまるか」と頑張るものがますます勢いを逞《たくま》しくした。眼の前がかすみ始めた。
いつの間にかおぬいさんの声がしなくなっていた。それに気づくとさすがに渡瀬は我れに返った。そしてさすがに自分を恥じた。おぬいさんは渡瀬が今まで妄想していたところよりあまりかけ離れた清いところにいた。彼は書物の方に顔を寄せながら、ともかく、
「ええと、それは」
といったが、どこに不審の箇所があるのか皆目《かいもく》知れなかった。
「どこ
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