ら、後れ毛のないようにかき上げた。そして袖口をきちんと揃えて、坐りなおすと、はじめて心が落着くのを感じた。おぬいはしんみりと読本に向いて勉強をしはじめた。
 ややしばらくしてから、格子戸が力強く引き開けられた。それは渡瀬さんに違いなかった。おぬいは別に慌てることもなく、すなおな気持で立ち上って迎いに出ようとしたが、部屋の出口の柱に、母とおぬいとの襷がかけてあるのを見ると、派手な色合いの自分の襷を素早くはずして袂の中にしまいこんだ。
「いつものとおり胡坐《あぐら》をかきますよ。敲《たた》き大工の息子ですから、几帳面《きちょうめん》に長く坐っていると立てなくなりますよ」
 渡瀬さんはそういって、片眼をかがやかしながら、からからと笑って膝を崩した。からからといっても、渡瀬さんの笑いには声は出なかった。
「茶なんざあ、あとでいいですよ。さあやりましょう」
 おぬいは渡瀬さんのいうとおりにして、その人と向合いに坐った。渡瀬さんの気息はいつものように酒くさかった。飲んだばかりの酒の匂いではなく、常習的な酒癖のために、体臭になったかと思われるような匂いだった。おぬいはそのすえたような匂いをかぐと、軽い嘔気《はきけ》さえ催すのだった。けれども、それだからといって渡瀬さんを卑《いや》しむ気にはなれなかった。父の時代から一滴の酒も入れない家庭に育ちながら、そして母も自分も禁酒会の会員でありながら、他人の飲酒をいちがいに卑しむ心持は起らなかった。これは自分の心持に忠実な態度だろうかとおぬいはよく考えてみるのだった。禁酒会員である以上は、自分の力の及ぶかぎり飲酒を諫《いさ》めなければならないとも思った。その人が溺《おぼ》れている悪い習慣の結果を考えるなら、不愉快を忍んでも諫《いさ》めだてをするのが当然だった。けれどもおぬいには心持としてそれがどうしてもできなかった。なぜだかおぬい自身には判らないけれどもどうしてもできなかった。自分が卑怯《ひきょう》だからそうなのかと考えてもみたが、あながちそうでもない。面倒だからか。そうでもない。どういう心持なのだろう……おぬいはその解決を求めるように渡瀬さんの方を見た。酒焼けというのだろうか、きめの荒そうな皮膚が紫がかっていて、顔全体にむくみが来て、鋭い光を放ってかがやく眼だけれども、その白眼は見るも痛々しいほど充血していた。……酷《むご》たらしい、どうして渡瀬さんは酒なんぞお飲みなさるのだろう。それにしても、あれほどの害をまざまざと受けながら、飲みつづけていられるのは、自分たちには分らない訳があることに違いない。私は渡瀬さんが何んだかお気の毒だ。けれども何も知らない私の力ではどうしようもないではないか……つまりこれだけしか分らなかった。
「さてと、今日はどこから……おや、あなた僕の顔を見ていますね。はははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
 渡瀬さんはいきなりそのこね固めたような奇怪な顔を少し突きだすようにした。おぬいは大変な悪いことをしたとおもった。人の醜《みにく》い部分に臆面《おくめん》もなく注意を向けていたのを……そのつもりではなかったのだが……すまなく思った。といっても、いい訳もできなかった。ただ渡瀬さんの顔の醜いのを物好きに眺めていたのではない。それを知らせたいために、十分の好意をもって、かすかに微笑んだ。
 すると渡瀬さんは途轍《とてつ》もなく、
「失礼、あなたはいくつになりますね」
 と尋ねた。素直に十九だと答えると感心したように、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
 と嘆息するようにいいながら、今度は渡瀬さんがしげしげとおぬいの顔を見た。おぬいは軽い羞恥と、さらにかすかな恐れをも感ぜずにはいられなかった。けれどもその場合、恥かしがることも恐れることも少しもないはずだと思うと、すぐに不断のとおりの気持に帰ることができて、
「それでは始めていただきます」
 といいながら、書物を机の真中の方に持っていった。渡瀬さんもそのつもりらしく、上体を机の上に乗りだした。
 おぬいは何もかも忘れて、懸命にこの前教えられたところを復習した。第四読本は少し力にあまるのだけれども、書いてあることが第三読本よりはるかに身があるので、読むには励《はげ》みがあった。アーヴィングという人の「悲恋」(Broken《ブロークン》 Heart《ハート》)という条《くだ》りだった。星野さんがこの書物を始める時、目次によって内容をあらかた話してくれた時、この章に書いてあるのは、アイルランドのある若い勇ましい愛国者と、その婚約の娘との間に起った実際の出来事だといったので、おぬいにはよけい興味のあるものだった。渡瀬さんがこの前それを講義してくれた時も、おぬいは幾度となく美しい悲しさを覚えて、涙のこぼれ落ちそうになるのをじっと我慢しながら、平気な顔をして、数学でも解《と》くように講義している渡瀬さんを不思議に思った。そして渡瀬さんが帰ってから、その一伍一什《いちぶしじゅう》を母に話して聞かせようとして、ふと母の境涯を考えると、とんでもないことをいいかけたと思って、そのまま口には出さないでしまったのだった。
 今日その章を声を出して読むことは、おぬいにはかなり苦しいことだった。もしもこの前のように感情が書いてあることに誘いこまれたら、どうしようと危ぶまずにはいられなかった。どこまでも作り話だと思って読もうと勉めながら、おぬいは始めの方から意訳していった。けれども冒頭からもう涙ぐましい気持にされていた。おぬいはかねてから、自分の身の上にも、いつかは恋愛が来るだろうとは覚悟していた。けれどもそれは、本当に来るのだろうかと疑わねばならぬほど遠いところにあるもので、しかもそれに襲われたが最後、知りながら否応なしに、苦しみと悲しみとに落ちこんでいかねばならぬものとなぜとはなく思いこんでいた。彼女の心の底をゆり動かす怖れといっては実際それだけだった。今おぬいの眼の前には、彼女の心の怖れを裏書きするような事実が語られているのだ。読んでゆくうちにおぬいの心は幾度となく悲しさと悩ましさとのために戦《おのの》いた。あるところでは言葉が震え、あるところでは涙が溢れでようとしたけれども、おぬいは露ほどもそれを渡瀬さんに気取られたくはなかった。そういうところに来ると彼女は已《や》むを得ず口を噤《つぐ》んで、解らないところに出遇《でっくわ》したように装った(おお何という悪いことだろう、私はこのごろ人様の前で自分を偽《いつわ》らねばいられないようになってきた、とおぬいは心の中で嘆息するのだった)。
「そこですか。それは何んでもないじゃありませんか」
 と渡瀬さんは無遠慮にいって、頭のいい人らしくはっきり解るように教えてくれた。おぬいはその間にようやく感情を抑えつけて、また先きを読みつづけてゆくことができた。そしてこういうことが二度三度と重なっていった。おぬいはまた烈しい感情で心を揺り動かされて、胸のところに酸《す》っぱく衝《つ》き上げてくるようなものを感じながら黙ってしまった。しかし渡瀬さんは今度は即座には教えてくれなかった。不思議には思いながらも、しばらくたってから、ようやく顔を上げてみると、渡瀬さんは充血《じゅうけつ》して、多少ぼんやりしたような顔つきで、おぬいの額ぎわをじっと見つめていたのだと知れた。おぬいは不思議にもそれを知ると本能的にはっ[#「はっ」に傍点]と思った。渡瀬さんも日ごろの渡瀬さんに似合わず、少し慌てながら顔を紅くして、すぐに書物に眼を落したが、
「ええと、それは……どこでしたかね」
 といいながら、やきもき[#「やきもき」に傍点]と顔を書物の方につきだした。
 おぬいはその時はからず母のいいおいていった言葉を思いだしていた。そして渡瀬さんに対して、恐ろしい不安を感じないではいられなくなった。渡瀬さんと向い合って人気のない家にいるのがたまらないほど無気味になった。おぬいは思わず「天にある父様」と念じながら(神様という言葉はきらいだった。父が亡くなってからは天にある父様という言葉がこの上もなくなつかしかった)、力でも求めるように、素早くあたりを見まわした。「もし私が知らずに渡瀬さんを誘惑しましたら、どうかどうかお許しくださいまし」
「正しい心がけで、そのほかは神様におまかせしておけば安心です」……その母の言葉、それがまた思いだされた。おぬいは眼がさめたように自分の今までの卑怯《ひきょう》な態度を思い知った。自分の心の姿を渡瀬さんに見せまいとしていたのが間違いだったと気がついた。そこに気がつくと、きゅうにすがすがしく力を感じた、落着いてふたたび書物に向うことができた。読んでゆく間に、もちろん感情は昂《たか》められたけれども、口を噤むほどのことはなくて、しまいまで読みつづけた。渡瀬さんもそれからはかなり注意しておぬいの訳読を見ていてくれた。
 読み終えるとおぬいは眼に涙をためていた。もうそれを渡瀬さんに隠そうとはしなかった。
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が分らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの。作り話ではどんな悲しいことが書いてあっても、私そんなに悲しいとは思いませんけれども、こんな本当のお話を読みますと……」
 ハンケチで涙を拭いながら何事も打ち明けてこういった。
「これは本当の話ですか」
 渡瀬さんは恥かしげもなくこう聞き返した。
「星野さんがそういうようにおっしゃってでしたけれども」
「本当であったところが要するに作り話ですよ。文学者なんて奴は、尾鰭《おひれ》をつけることがうまいですからね」
 渡瀬さんはこだわりなさそうに笑ったが、やがていくらかまじめになって、
「今日はお母さんは……お留守ですか」
「診察に出かけました……よろしくと申していました」
 正しい心がけで……おぬいは怖れることは露ほどもないと心を落ちつけた。
「じゃ先をやりますかな……」
 渡瀬さんは書物を手に取り上げて、しばらくどこともなく頁《ページ》をくっていたが、少し失礼だと思うほどまともにおぬいを見やりながら、
「おぬいさん」
 といった。渡瀬さんから自分の名を呼ばれるのはおぬいには始めてだった。
「はい」
 おぬいもまじろがずに渡瀬さんを見た。
「やあ困るな、そうまじめに出られちゃ……あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
「いいえ」
 おぬいはここぞと思って、きっぱりと答えた。
「それで泣くというのは変ですねえ」
 渡瀬さんは少し大ぎょうにこういいながら、立ち上ってストーヴに薪をくべに行こうとした。おぬいも反射的に立ち上ってその方に行きかけたが、二人が触れあわんばかりに互に近寄った時、渡瀬の全身から何か脅《おど》かすようなものが迸《ほとばし》りでるのを感じて、急いで身をひるがえしてもとの座になおった。
 渡瀬さんは薪をくべると手をはたき合せながら机の向うに帰った。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
 この二の句を聞くと、おぬいはあまりに押しつけがましいと思った。噂のとおり少し無遠慮すぎると思った。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののように思います。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと、今から悲しゅうございます。だもんですから、ああいうお話を読みますと、つい自分のように感じてしまうのでございましょうか」
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
 おぬいはもうこの上我慢がしていられなかった。母がいてくれさえすればと思った。口惜涙を抑えようとしても抑えることができなかった。そしてハンケチを取りだす暇もないので、両方の中指を眼がしらのところにあてて、俯向《うつむ》いたままじっと涙腺を押えていた。
 渡瀬さんはしばらくぼんやりしていたが、きゅうに慌てはじめたようだった。
「悪かったおぬいさん。僕が悪かった。……
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