でしたかね」
自分ながら薄のろい声で彼はこう尋ねねばならなかった。
おぬいさんはきっとした、少し恨《うら》めしそうに青ざめた顔を心もち震わせながら、つかえたところを指さした。それがまたむやみにやさしいところだった。渡瀬は、今日はおぬいさんも変だなと思った。
復習を終えたおぬいさんはひどく顔色を青くしていた。しかも眼には涙がたまっていた。渡瀬はそれを見ると自分の心持が気取《けど》られたなと思った。できない相談には決っているが、たとえおぬいさんとの結婚をおばさんに打ちだしてみたところが、ひと弾《はじ》きに弾かれるのは知れきっている。万が一おぬいさんを彼の力の下においてみたところが、どこまでいっしょにやっていけるかそれもおぼつかない。なぜというに渡瀬はおぬいさんのような人をどう取り扱えばいいかの自信がありえなかったから。それだからといって、この気持を捨てられないのも知れきっている。いっそう……そう思った時、おぬいさんが静かに、
「たびたび読みつかえたのをごめんくださいまし。意味が解らなかったのではないんですけれども、あんまり悲しいことが書いてあるものですから、つい黙ってしまいましたの」
といって、少し恥じらうようにこちらに瞳《ひとみ》を定めた、渡瀬は背負投《しょいなげ》を喰ったように思った。たとえば憎悪でもかまわない、自分についておぬいさんが悩んでいてくれたら渡瀬は嬉しかったろう。彼は思い存分の皮肉がいい放ちたくなった。そしてわざと高笑いをしながら、
「文学者なんて奴は、尾鰭《おひれ》をつけることがうまいですからね」
といった。もちろんそれだけでは復讐がし足りなかった。何らの手管《てくだ》もなく、たった純潔一つで操《あやつ》られていると思うと渡瀬は心外でたまらなかった。純潔――そんなものの無力を心でつねに主張している彼には(そして彼は十七歳の時から立派に純潔を踏みにじってきているのだ)小癪《こしゃく》にさわった。それにしても何んという可憐な動物だ。彼の酷《むご》たらしい抱擁《ほうよう》の下に、死ぬほどに苦しみ悶えながら彼女の純潔が奪われていく瞬間を想像すると、渡瀬はふたたび眩惑《げんわく》するような欲望の衝動を感じないではいられなかった。その後に彼女が彼から離れてしまおうと、ますます牽《ひ》きつけられてこようと、それはたいした問題ではなかった。
渡瀬は茶の間を見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に目論見《もくろみ》ながら、
「今日はお母さんはお留守ですか」
と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを(もし彼女があたり前の事を知った女なら)怖れさすに十分だと同時に、反抗か屈服かの覚悟を強いるに十分な言葉なはずだ。
ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、
「診察に出かけました……よろしく申していました」
と他意なく母の留守を披露《ひろう》した。赤子の手をねじり上げることができようか。渡瀬はまた腰を折られてしょうことなしに机の上にある読本を取り上げて、いじくりまわした。
けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は無恥《むち》らしい眼を挙げておぬいさんを見上げ見おろした。その時、ふと考えついたのは、おぬいさんがすでに意中の人を持っているなということだった。恋に酔っている女性ほど、他の男に対して無慾に見えるものはない。おぬいさんの無邪気らしさに欺《あざむ》かれかけたのはあまりばからしいことだった。十九の女に恋がない……彼は何を考えていたのだろうと思った。
彼はおぬいさんを見やりながら、
「おぬいさん」
と呼んだ。彼はばかばかしい嫉妬《しっと》の情の中にも、自分の声に酔いしれたようになった。おぬいさんに向ってその名を呼びかけたのはこれが始めてなのだ。
「あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
今度はとっちめてみせるぞ。
即座に、
「いいえ」
と答えた彼女の答えは、少しの隠しだてもなく、きっぱりとしたものだった。渡瀬は明かにそれを感じないではいられなかった。何んという、簡単な敗北を見なければならないだろう。あまりに簡単だ。しかしあまりに明快だ。何もかも素直に投げだして、背水《はいすい》の陣《じん》を布《し》いたらしく見える彼女を思うと、渡瀬はふと奇怪な涙ぐましさをさえ感じた。渡瀬はもとよりおぬいさんを憎んでいるのではない。けれども一日おきに向い合っているうちに、二人の距離と、彼自身の中に否応なしに育っていく無体な欲念との間に、ほとんど憎しみともいえそうな根深い執着を感じはじめていた。ある残虐《ざんぎゃく》な心さえ萌《きざ》していた。けれどもおぬいさんと面と向って、その清々《すがすが》しい心の動きと、白露《はくろ》のような姿とに接すると、それを微塵《みじん》に打ち壊そうとあせる自分の焦躁が恐ろしくさえあった。すべてが終ったあとにおぬいさんが受けるであろうその悩みと苦しみとを考えてみただけでも、心が寒くなった。不思議な女もあったものだと思うほかはなかった。不思議な自分の心だと思うほかはなかった。……それにつけても渡瀬はいらだった。
かまうものか、もっといじめてやれ。渡瀬は何んとなしに残虐なことをしてみたい心になっていた。そして自分で自分をけしかけるように、大ぎょうな表情を見せながら、
「それで泣くというのは変じゃありませんか」
とむりに追窮した。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
彼は自分ながら皮肉な気持の増長するのを感じた。
おぬいさんはほっ[#「ほっ」に傍点]と小さく気息《いき》をついた。そしてしばらくしてから、やや俯向いたまま震えた声で、しかしはっきりといいだした。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののようにおもいます。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと今から悲しゅうございます。だもんですからああいうお話を読みますと、つい自分のことのように感じてしまうのでございましょうか」
この女は俺の説でも承《うけたまわ》ろうとするがいいんだ。そんな抽象論で引きさがるかい。
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
このくらいいっても応えないか。
と、今まで素直に素直にとしていたらしいおぬいさんの顔色がさっ[#「さっ」に傍点]と変って、死んだもののように青ざめた。俯向けた前髪が激しく震えだした。今度こそは真から腹を立てて、貞女らしい口をきくだろう、そう渡瀬が思っていると、おぬいさんは忙《いそ》がしく袂を探ろうとしたが、それも間に合わなかったか、いきなり両手を眼のところにもっていって、じっと押えた。石になったかと思われるほど彼女は身動きもしなかった。
渡瀬は不意を喰ってきょとん[#「きょとん」に傍点]とした。……はじめて彼は今まで自分が何をしていたかを知った。彼は自分がこれほど酷《むご》たらしい男だとは思わなかった。どうして残虐《ざんぎゃく》な気持があとからあとから湧きだして、彼に露骨《ろこつ》な言葉を吐かしたかが怪しまれだした。俺は悪党だ。俺は悪人だ。その俺にもおぬいさんが善人なのはよくわかる。何、それは前からわかっていたんだ。それだのに俺は何んのためにおぬいさんに嫌われるようなことをたて続けにしゃべっていたのだろう。俺は悪党だが善人を悪党の群に引張りこむほどの悪党ではないんですよ、おぬいさん。
「悪かったおぬいさん、僕が悪るかった。……僕はどうもあなたみたいな人を取りあつかったことがないもんだから……失敬しました。……僕はこんな乱暴者だが、今日という今日は我を折りました。……許してください。僕はこうやって心からあやまるから」
そういって、彼は几帳面に坐りなおると、膝の上に両手をついて、頭をちょっと下げた。彼はまったくそうした気持にされていたのだ。
何をどういったか、そのあとはよく分らなかったが、渡瀬はとにかく居心地がいやに悪くなって、尻から追いたてられるように急いでおぬいさんの家を飛びだした。
とっぷりと日が暮れて、雪は本降りに降りはじめていた。北海道にしては大粒の雪が、ややともすると襟頸に飛びこんで、そのたびごとに彼は寒けを感じた。
彼はとっと[#「とっと」に傍点]と新井田氏の家の方を指して歩いた。「ああいけねえ」と独りごちた。何んだか打ちのめされたようだった。力が抜けてしまった。ばかばかしく淋しかった。寒いように淋しかった。
「新井田の方はあと廻わしだ」そう彼はまた独りごちて、狸《たぬき》小路のいきつけの蕎麦屋《そばや》にはいった。そして煮肴《にざかな》一皿だけを取りよせて、熱燗を何本となく続けのみにした。十分に酔ったのを確めると彼は店を出た。
しかし渡瀬は酔いがすぐ覚めそうで不安だった。で酒屋の店に出喰わすと、そのたびごとに立ち寄って盛切《もっきり》をひっかけた。
「何、俺は結局おぬいさんとどうしようというのではなかった。ただ何んとしてもおぬいさんが可愛いいんだ。可愛いい犬ころをいじくり廻わして、きゃんといわさなければ、気がすまなくなるあれなんだ。いわばあれなんだな。だが待てよ、そうでもないのかな」
ある酒屋では小僧がからかうように、
「学生さん、お前さん酔っていますね」
といった。ふむ、俺の酔ってるのが分るのは感心な小僧だ。
「お前はまだ女郎買いはしめえな」
「冗談じゃないよ、学生さん」
渡瀬は十三四らしいその小僧の丸っこい坊主頭を撫でまわした。
「お前は俺が酔ったまぎれに泣いてるとでも思うんか。……よし、泣いてると思うなら思え。涙は水の一種類で小便と同じもんだ」
こういいながら彼は、またふらふらとその店を出た。
彼は人通りの少ないアカシヤ通の広い道を、何んだか弱りしょびれた気持になって、北の空から吹きつける雪に刃向って歩いていった。彼は自分が忠義深い士のような心持だった。伏姫にかしずく八房のようでもあった。ああ俺はまったくあの畜生だな。まったく涙がほろりと流れてきた。何んだかばかばかしいと彼は思った。
新井田氏の玄関によろけこむと、渡瀬は拳固《げんこ》で涙と鼻水とをめちゃくちゃに押しぬぐいながら、
「奥さあん」
と大声を立てて、式台にどっか[#「どっか」に傍点]と尻餅をついた。
奥さんはすぐドアを開けて駈けだしてきた。
「あら大変。あなた、戸も締めないで雪が吹きこむじゃないの」
といいながら、そこにあった下駄を片方の足だけにはいて、斜に身を延ばして、玄関の戸を締めた。股《また》をはだけた奥さんの腰から下が渡瀬のすぐ眼の前にちらついた。
「無礼者……とは、かく申す拙者《せっしゃ》のことですよ……酔っている? 酔っているかと問われれば、酔っています。……ガンベの酔ったのを見たことがありますか……現在ははは……現在を除いてさ……」
奥さんのしなやかな手が、渡瀬の肩の雪を軽く払っていた。
「いた、……いた、……痛いですよ、奥さん」
「あなた今日は本当にどうかしているわね……さあお上りなさいな」
渡瀬は奥さんの手のさわったところをさすりながら、情けなくなって、そのあでやかな、そのくせ性《せい》というものばかりででき上っているような顔を見上げた。
「情けないねまったく……あなたの顔を見るとガンベは……まあいい、……それはそれとして、と……奥さん、僕は今日は、こんなへべれけの酔っぱらいになっちまったから、レコ……じゃないあなたにだ……あなたのいう『あなた』さ……はははは、その『あなた』に、へべれけの酔っぱらいになっちまったから、今日は休む……休むといってください。さようなら」
渡瀬はやおら腰を上げにかかったが、また酔のさめるのが不安になった。彼は腰をすえた。
「奥さん、ウ※[#小書き片仮名ヰ、304−上−4]スキーを一杯後生だから飲ませてください」
「あなた、そんなに飲んでいいの」
奥さんは本当に心配らしく、立ちながら、眉を寄せて渡瀬の顔
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