鎮《しず》めて眠ろうとすればするほど、悲しみはあとからあとからと湧き返って、涙のために痛みながらも眠が冴《さ》えるばかりだった。
おぬいはとうとうそっと起き上った。そして箪笥《たんす》の上に飾ってある父の写真を取って床に帰った。父がまだ達者だったころのもので、細面の清々《すがすが》しい顔がやや横向きになって遠い所をじっと見詰めていた。おぬいはそれを幾度も幾度も自分の頬に押しあてた。冷たいガラスの面が快い感触をほてった皮膚に伝えた。おぬいはその感触に甘やかされて、今度は写真を両手で胸のところに抱きしめた。
涙がまた新たに流れはじめた。
二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した。
夜は深いのだろう。母の寝息は少しも乱れずに静かに聞こえつづけていた。おぬいはようこそ母を起さなかったと思った。
* * *
夜学校を教えるために、夜食をすますとすぐ白官舎を出た柿江は、創成川っぷちで奇妙な物売に出遇《であ》った。
その町筋は車力や出面《でめん》(労働者の地方名)や雑穀商などが、ことに夕刻は忙がしく行き来している所なのだが、その
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