日はない。……だがこんなことは医者にさえいう必要はないことだよ。こんな嬉しいことはめいめいの心の中に大事にしまっておくべきことだからな」
苦しい呼吸の間から父はようやくこれだけのことをいって横になった。
この出来事については母もおぬいも父の言葉どおり誰にもいわないでいる。いわないでいるうちにおぬいにとっては、それがとても口には出せないほど尊いものになっていた。
おぬいは老境に来たのを思わせるような母の後姿を見つめながら、これを思いだすと、涙がまたもや眼頭から熱く流れだしてきた。啜泣《すすりな》きになろうとするのをじっと堪えた。……不断は柔和で打ち沈んだ父だったけれども何んという男らしい人だったろう。あの強い烈しい底力、それはもうこの家には、どの隅にも塵ほども残っていない。……淋しい、父が欲しい。父がもう一度欲しい。父のあの骨ばった手をもう一度自分の肩に感じてみたい。
力の不足、自分一人ではどうしようもない力の不足――倚《よ》りすがることのできるものに何もかも打ち任《ま》かして倚《よ》りすがりたい憧《あこが》れ、――そしてどこにもそんなもののない喰い入るような物足らなさ。……気を
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