、右の眼頭から左の眼に、左の眼尻から鬢《びん》の髪へとかけて、涙の跡はそこにも濡れたまま残っていた。おぬいは袖口を指先にまるめてそっ[#「そっ」に傍点]と押し拭った。それとともに、泣じゃくりのあとのような溜息が唇を漏れた。
 覚めてから覚えている夢も覚えていない夢も、母にはぐれたり、背《そむ》いたり、厭われたりするような夢ばかりなことはたしかだった。今見た夢もはっきり覚えていないのだったが、覚えていないのは覚えているよりもいっそう悲しい夢であるような気がした。
 今のおぬいの身の上として、天にも地にも頼むものは母一人きりなのだ、その母がおぬいをまったく見忘れている夢らしかった。怖いものを見窮《みきわ》めたいあの好奇心と同じような気持で、おぬいは今見た夢のそこここを忘却の中から拾いだそうとし始めた。
 母があれはおぬいではありませんときっぱり人々にいっていた。おかしなことをいう娘だといいそうな快活な笑いを唇のあたりに浮べながら。まわりにいる人たちもおぬいに加勢して、あれはあなたのお嬢さんですよといい張ってくれているのに母は冗談にばかりしているらしかった。おぬいはもしやと思って自分を見ると
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