不平を訴えずにいられなかった。
「私の方にもありませんのよ」
 とおぬいさんがいった。
 大通りから婆やは一人になった。これでようやく帰りついたと思うと、書生さんたちはとうの昔に帰ってきていて、早く飯にしろとせがみたてるに違いない。これから支度をするのにそう手早くできてたまることかなと婆やは思いながらもせわしない気分になって丸っこい体を転がるように急がせた。
 きゅうに手の甲がぴりぴりしだした。見ると一寸《いっすん》ばかり蚯蚓脹《みみずば》れになっていた。涙がまたなんとなく眼の中に湧いてきた。
     *    *    *
 おぬいは手さぐりで夢中に母にすがりつこうとしていたらしかった。眼をさましてみると、母は背面向《むこうむ》きになってはいるが、自分のすぐ側に、安らかな鼾《いびき》を小さくかきながら寝入っていた。
 ほっ[#「ほっ」に傍点]と安心はした。けれどもどうしてこんないやな夢ばかり見るのだろうとおぬいは情けなかった。枕紙に手をやってみるとはたしてしとどに濡れていた。夢の中で絶え入るように泣いてしまったのだから、濡れていると思ったらやはり濡れていた。眼のあたりを触ってみると
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