逸は早く寝入ってしまうに限ると思って夜着の中に顔を埋めた。寝入りばなの咳がことに邪魔になった。
 純次が鼻緒のゆるんだ下駄を引きずってやってくる音がした。清逸は今夜はもう相手になっていたくなかったので寝入ったことにしていようと思った。
 思いやりもなく荒々しく引戸を開けて、ぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と締めきると、錠《じょう》をおろすらしい音がした。純次は必要もない工夫のようなことをして得意でいるのだが、その錠前もおそらくその工夫の一つなのだろう。こんな空家同然な離れに錠前をかけて寝る彼の心持が笑止だった。
 やがて純次は、清逸の使いふるしの抽出《ひきだし》も何もない机の前に坐った。机の上には三分|芯《じん》のラムプがホヤの片側を真黒に燻《くすぶ》らして暗く灯っていた。机の片隅には「青年文」「女学雑誌」「文芸倶楽部」などのバック・ナムバアと、ユニオンの第四読本と博文館の当用日記とが積んであるのを清逸は見て知っていた。机の前の壁には、純次自身の下手糞な手跡で「精神一到何事不成陽気発所金石亦透《せいしんいっとうなにごとかならざらんようきのはっするところきんせきもまたとおる》」と半紙に書
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