一つだったが、火影を見るにつけてそれがすぐに思いだされた。気を落ちつけて聞くと淙々《そうそう》と鳴りひびく川音のほかに水車のことんことんと廻る音がかすかに聞こえるようでもある。窓のすぐ前には何年ごろにか純次やおせいと一本ずつ山から採ってきて植えた落葉松《からまつ》が驚くほど育ち上がって立っていた。鉄鎖《てつさ》のように黄葉したその葉が月の光でよく見えた。二本は無事に育っていたが、一本は雪にでも折れたのか梢の所が天狗巣《てんぐそう》のように丸まっていた。そんなことまで清逸の眼についた。
突然清逸の注意は母家《おもや》の茶の間の方に牽《ひ》き曲げられた。ばかげて声高な純次に譲らないほど父の声も高く尖《とが》っていた。言い争いの発端《ほったん》は判らない。
「中島を見ろ、四十五まであの男は木刀一本と褌《ふんどし》一筋の足軽風情だったのを、函館にいる時分何に発心したか、島松にやってきて水田にかかったんだ。今じゃお前水田にかけては、北海道切っての生神様《いきがみさま》だ。何も学問ばかりが人間になる資格にはならないことだ」
「じゃ何んで兄さんにばっか学問をさせるんだ」
「だから言って聞かせている
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