していた。
 何時ごろだろうと思って彼はすぐ枕許のさらし木綿《もめん》のカーテンに頭を突っこんで窓の外を覗いてみた。
 珍らしく月夜だった。夜になると曇るので気づかずにいたが、もう九日ぐらいだろうかと思われる上弦というより左弦ともいうべきかなり肥った櫛形《くしがた》の月が、川向うの密生した木立の上二段ほどの所に昇っていた。月よりも遠く見える空の奥に、シルラス雲がほのかな銀色をして休《やす》らっていた。寂《さ》びきった眺めだった。裏庭のすぐ先を流れている千歳川の上流をすかしてみると、五町ほどの所に火影が木叢《こむら》の間を見え隠れしていた。瀬切りをして水車がかけてあって、川を登ってくる鮭《さけ》がそれにすくい上げられるのだ。孵化場の所員に指揮されてアイヌたちが今夜も夜通し作業をやっているのに違いない。シムキというアイヌだった。その老人が樺炬火《かんばたいまつ》をかざして、その握り方で光力を加減しながら、川の上に半身を乗りだすような身構えで、鰭《ひれ》や尾を水から上に出しながら、真黒に競合《せりあ》って鮭の昇ってくる具合を見つめていた……それは清逸が孵化場の給仕をしていたころに受けた印象の
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