あかぎれ一つ切らさず、楽をしながら出世する。その犠牲になっているのだぞという素振《そぶ》りを、彼は機会あるごとに言葉にも動作にも現わした。それは清逸の心を暗くした。
 貧しい気づまりな食卓を四人の親子は囲んだ。父の前には見なれた徳利と、塩辛《しおから》のはいった蓋物《ふたもの》とが据えられて、父は器用な手酌で酒を飲んだ。しかし不断ならば、盃を取った場合に父の口から繰りだされるはずの「いやどうも」という言葉は一つも出てこなかった。純次は食卓から胸にかけて麦《むぎ》たくさんなためにぽろぽろする飯をこぼし散らかすと、母は丹念にそれを拾って自分の口に入れた。母はいい母だがまったく教育がない。教育のないのを自分のひけめにして、父から圧制されるのを天から授かった運命のように思っているらしかった。末子の純次に対しては無智な動物のような溺愛《できあい》を送っていた。その母が清逸に対しての態度は知れている。
「もう鮭はたくさん上《のぼ》ってきだしたのか」
 清逸はたまりかねて純次にこう尋ねてみた。
「うむ」
 という答えが飯を頬張った口の奥から出るだけだった。
「今年は何台卵を孵《か》えすんだね」
「知
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