なと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪《かんざし》を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草《しぐさ》から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著《いちじる》しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
藍がかってさえ見える黒い瞳《ひとみ》は素《す》ばしこく上下に動いて行《ぎょう》から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家
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