ぱら聞かそうというそれは声なのだろう。どこまでも澄みきっていながら、しかも震いつきたいほどの暖かみを持ったそのしなやかな声は、悲しい物語を、見るように渡瀬の耳の奥に運んできた。始めのうちは、おぬいさんがつかえるとすぐに見てやっていたが、だんだんそんな注意は遠退いて、ほれぼれとその声に聴き入らずにはいられなくなった。おぬいの声にもしだいに熱情が加わってくるようにみえた。渡瀬は知らず知らず書物から眼を離して、自分のすぐ前にあるおぬいさんの髪、額、鼻筋、細長い眉、睫毛、物いうごとにかすかに動くやや上気した頬《ほお》の上部、それらを見るともなく見やりはじめた。すべてが何んという憎むべき蠱惑《こわく》だろう。これはやりきれない御馳走《ごちそう》だ。耳と眼とが酔ったくれていうことを聴かなくなってしまう、と渡瀬はわくわくしながら考えた。それが渡瀬には容易に専有《せんゆう》することのできない宝《たから》だと考えれば考えるほど、無体な欲求は激しくなった。教師としてこれほど信頼されているのをという後ろめたさを彼は知らず知らずだんだんに踏み越えていった。しびれるような欲望の熱感が健康すぎるほどな彼の五体をめ
前へ
次へ
全255ページ中189ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング