けることがうまいですからね」
 渡瀬さんはこだわりなさそうに笑ったが、やがていくらかまじめになって、
「今日はお母さんは……お留守ですか」
「診察に出かけました……よろしくと申していました」
 正しい心がけで……おぬいは怖れることは露ほどもないと心を落ちつけた。
「じゃ先をやりますかな……」
 渡瀬さんは書物を手に取り上げて、しばらくどこともなく頁《ページ》をくっていたが、少し失礼だと思うほどまともにおぬいを見やりながら、
「おぬいさん」
 といった。渡瀬さんから自分の名を呼ばれるのはおぬいには始めてだった。
「はい」
 おぬいもまじろがずに渡瀬さんを見た。
「やあ困るな、そうまじめに出られちゃ……あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
「いいえ」
 おぬいはここぞと思って、きっぱりと答えた。
「それで泣くというのは変ですねえ」
 渡瀬さんは少し大ぎょうにこういいながら、立ち上ってストーヴに薪をくべに行こうとした。おぬいも反射的に立ち上ってその方に行きかけたが、二人が触れあわんばかりに互に近寄った時、渡瀬の全身から何か脅《おど》かすようなもの
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