れながらの道徳家だ、そういう印象を誰にでも与えている。彼はそれを意識していた。そしてそれに倚《よ》りかかって自分というものの存在を守っていた。万一、人々が彼に対して持っているこの印象を我から進んで崩したら、彼は立つ瀬がなくなるのだ。
 柿江はいつの間にか遊廓に沿うてその西の端れまで歩いてきてしまっていた。そこには新川という溝のような細い川がせせらぎを作って流れている、その川音が上《うわ》ずった耳にも響いてきた。柿江はその川を越して遊廓から離れるべきだったのに、離れる代りに、また東の方に向いて元と来た道を歩きはじめた。柿江の心がどっちに傾いてもその足は目指すところを離れようとはしなかった。のみならず、彼は吸い寄せられるように、遊廓に沿うて流れている溝川の方へとだんだん寄っていって、右手の爪を血の出るほど深くぶつりぶつりと噛みながら少し歩いては立ち停り、また少し歩いては立ち停った。そしてとうとう一本だけ渡してある小さな板橋の所に来て動かなくなってしまった。
 柿江は自分をそこに見出すと、また窃《ぬす》むようにきょときょと[#「きょときょと」に傍点]とあたりを見廻した。人通りはまったく途絶え
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