けてよこした。たとえば、世の中にはずっと清潔な心と自制心とを持った男がと考える暇もなく、それは嘘だ、皆んな貴様と同様なのだ、たぶん貴様以上なのだ。法螺吹《ほらふ》きのくせに正直者の貴様には今までそれが見えなかっただけだ、と彼の頭は断定的に答えるのだ。彼はそしてその答えに一言もないような気がした。
 それなら行こう、と柿江が実際自分の体を遊廓の方にふり向けようとすると、まあ待ってくれと引きとめるものがどこかにいた。女に引きとめられたらそんな感じがするのだろうか、その力は弱いけれども、何かしら没義道《もぎどう》にふりきることができなかった。今度が二度目だ。二度行ったら三度行くだろう。三度行ったら四度、五度、六度と度重なるだろう。どこからそんなことをする金が出てくるか。そのうちにすべての経緯《いきさつ》が人に知れわたったらいったいどうする。
 柿江はきゅうに頭から寒くなった。何んといってもそれは重大な問題だ。柿江は自分がどういう骨組で成り立っているかを知りぬいているのだから。彼奴は妙に並外れた空想家で、おまけに常識はずれの振舞いをする男だが、あれできまりどころは案外きまっていて、根が正直で生
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