柿江がかつて触れてみなかった、皮膚の柔らかさと、滑らかさと、温かさと、匂いとをもって彼を有頂天にした女、……柿江はたんなる肉慾のいかに力強いかを感じはじめねばならなかった。彼は自分が恐ろしくなった。自分がこんなものだとはゆめにも思わなかったのだから。これはいけないとみずからをたしなめながら、すがりつくように左の方の淋しい林檎園を見入ったけれども、それは何んの力にもならなかった。自分の家のことを大急ぎで思いだしてみた。何んの感じもない。白官舎のものたちの思わくを考えてみた。何んの利き目もない。夜学校の教師たる自分の立場を省みてみた。ところが驚くべきことには、そこにいる女の生徒の顔や、襟足や、手足が、今までにもある感じを与えられていないことはなかったが、すぐ無視することのできたそれらのものが……柿江は本当に恐ろしくなってきた。……全身は悪寒《おかん》ではなく、病的な熱感で震えはじめていた。頭の中には血綿らしいものがいっぱいにつまって、鼻の奥まで塞がっていた。頭の重さというものが感ぜられるほど何かでいっぱいになっていた。そして柿江が何かを反省しようとすると、弾ね返すように断定的な答えを投げつ
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