残して、留守番の台所口に乱雑に脱ぎ捨ててある教師たちの履物《はきもの》の中から、自分の分を真暗らな中で手さぐりに捜しあてて、戸外に出た。
戸外は寒く真暗らだった。するとそこで柿江は自分の顔がきゅうにあつくなって、酔った時のように赤らんだのを感じた。心臓が音を立てんばかりに強く打ちだしたのを感じた。なるべく生徒の眼に触れぬようにと、生垣に沿うて素早く歩きだしたが、小さな生徒たちの鋭い眼はもちろんそれを見のがしはしなかった。柿江の身のまわりには鈴なりに子供たちがからみついていた。
「ゆんべはおっかなかったよ、先生、酔っぱらいのおやじが、両手を拡げて追ってくるんだもの」
「なあ」
「先生は今夜わしの方へと廻っておくれよ」そのほかいろいろな言葉が一度に、不思議な後ろめたさに興奮している柿江の耳に騒々しく響いてきた。柿江はわざと例のとぼけたような声を取りだして、生徒たちからなるべく早くのがれようと試みつつ、暗い貧乏町の往来に出た。
自分にまつわりついている生徒たちのほかに、そこにもここにも子供がいて、ややともすると柿江に話しかけようとした。
「先生は今日は用事があるんだから、明日の晩……じゃない、明後日の晩には皆なを送ってやるから、今日はめいめいで帰ってくれ、な。おい、いかんよ、そんなにからまりついちゃ」
そんなことを言って柿江はとうとう子供たちから離れて夜道を西へ向いて急いだ。
創成川を渡ると町の姿が変ってきゅうに小さな都会の町らしくなっていた。夜寒ではあるけれども、町並の店には灯が輝いて人の往来も相当にあった。
ふと柿江の眼の前には大黒座の絵看板があった。薄野《すすきの》遊廓の一隅に来てしまったことを柿江は覚《さと》った。そこには一丈もありそうな棒矢来《ぼうやらい》の塀と、昔風に黒渋《くろしぶ》で塗《ぬ》られた火の見|櫓《やぐら》があった。柿江はまた思わず自分の顔が火照《ほて》るのを痛々しく感じた。
ガンベだった、その奇怪な世界の中に柿江を誘っていったのは。おそらく彼は何んの意味もない酔興から柿江をそこに連れていったのだろう。しかし柿江にとっては、この上もない迷惑なことであって、この上もない蠱惑的《こわくてき》な冒険だった。「俺はいやだよ、よせよ」と自分にからみついてくるガンベの鉄のような力強い腕を払い退けながら、柿江の足は我にもなくガンベの歩く方に跟《つ》いていった。二人はいつの間にか制帽を懐《ふとこ》ろの中にたくしこんでいた。昼間見たら垢光《あかびか》りがしているだろうと思われるような、厚織りの紺の暖簾《のれん》を潜《くぐ》った。白官舎のとは反対に、新しくはあるけれども、踏むたびごとにしないきしむ階子段を登って、油じみと焼けこげだらけな畳の上に坐らせられた。眼をそむけたいほど淫らな感じのする女が現われて、べたべた[#「べたべた」に傍点]と柿江の膝の上に乗りかからんばかりに横とんびに坐った。ガンベが何か大声で一人ではしゃいでいるうちに酒が出た。柿江は早く自分を忘れたいばかりに、さされる盃を受けつづけた。飲むというほど飲んだことのない酒はすぐ頭へとひどくこたえだした。眼の中が熱くなって、そこに映るものが不断とは変ってきた。こんな場合、当然起ってくべきはずの性慾はますます退縮して、ただわくわくするような興奮で身の内が火のように震えだした。そして時々氷が……それは言葉どおりに氷だった……氷の小さい塊が溶けながら喉許から胸の奥にと薄気味悪く流れ下った。
「どうだ、ありがたかろう」
床の正面に、半分枯れかかった樺色と白との野菊を生けて、駄菓子でこね上げたような花瓶のおいてあったのを、障子の隅におろしてしまって、その代りに自分の懐ろから制帽を取りだして恭《うやうや》しく飾りながら、ガンベが拝むような様子をしてこういったっけ。柿江はいやな夢でも見ているような心持になったが、どういうつもりだったか、奇怪にも我れ知らず笑いだした。大声を上げていつまでもげらげらと。女たちがそれをおかしがるとなお笑った。
柿江は大黒座を左に折れて、遊廓の大門を大急ぎで通り越しながら、こんなことを不安に満たされた胸の中で回想していた。
柿江は自分が何の気なしにすることが、どうかすると人には頓狂《とんきょう》に見えて、それが一つの愛嬌《あいきょう》にされているのを意識していた。あの時もそんな気持が動いていたのだなと思った。取り返しのつかないようないやな心持がした。どうせああいう種類の女だ。かまうものかとも思った。それから今考えても自分に愛想の尽《つ》きるような気持を起させるのはその翌日のことだ。眼を覚ますと、もう朝日がいっぱいに射していたが、小恥かしい気分の中で真先に意識に上ってきたのはガンベのあの醜《みにく》い皮肉な片眼の顔だった。彼奴は憎々しいほくそ
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