や死んでしまったんだ」
大半の生徒は拍子木の声に勇みを覚えたように、机の蓋《ふた》をばたんばたんと音させて風呂敷包を作りはじめる。その中にも今まで聞いていた話の後を知ろうとあせるものがあった。
「先生、先生はどうしてその人を谷底から上に持ち上げた?」
「先生か、先生は持ち上げられなかったから、一人で崕《がけ》を這い上って、村の人に告げた」
「先生、その旗を見せてくれえよ」
柿江は話の都合上、自分は一枚の珍らしい旗を持っている。その旗の持主がまた珍らしい人なのだと前置きをして、その夜の修身を語りはじめたのだった。
「よしよし次の晩旗も見せてやるし、先生がその男の死んだのを村の人に告げてからの話もしてやる。村の人がどれほどその男の偉さに感心したか……」
柿江はそういうと、耳を聾がえらせるような騒々しさの中で、今までの話を続けたい気持にされていた。自分でも思い設けぬような戯曲的な光景があとから口を衝いて出てきそうな気がした。その時突然、
「先生それは皆んな作り話だなあ」
というものがあった。柿江はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその声のする方を見ると、少し低能じみた、そんな見分けのつきそうにもない小柄な少年の戸沢だった。柿江は安心して大胆になった。
「いいや、本当も本当、先生が自分で遇ってきた出来事なんだ」
この会話で教室内の空気がちょっと鎮《しず》まった。生徒たちは隙でも窺《うかが》うように柿江の顔つきに注意した。
「だって俺今夜こけへ来る時、その人に往来で遇ったもの」
柿江はしまった……と思ったが、思った瞬間に努力したのはそれを顔色に現さないことだった。そして咄嗟《とっさ》に、習慣的になっている彼の不思議な機智は彼をこの急場からも救いだした。
「戸沢は夢でも見たんだろう。……あ、解った。戸沢はその男の似而非者《にせもの》に遇ったんだな。その男のことが先生の生れた釧路の方で評判になると、似而非者が五六人できて、北海道をあちこちと歩き廻るようになったんだ。……それに違いない。それにお前は遇ったんだ」
その少年はまだ疑わしそうな顔をしながら黙ってしまった。そしてそこにはもう、その問題をなお追究しようというような生徒はなかった。一同は立ったりいたりして帰り支度にせわしかったから。
柿江はとにかく戸沢が疑わしげながら納得《なっとく》するのを見ると、自分の今まで能弁に話して聞かせていたまったくの作り話がいよいよ本当の出来事のように思えだした。
そこの貧民小学校の教師をして農学校に通う学生の二三人が自炊している事務所を兼ねた一室に来ると、尋常四年を受持っている森村が一人だけ、こわれかかった椅子に腰をかけて、いつでも疲れているような痩せしょびれた小さな顔を上向き加減にして、股火鉢をしていた、干からびた唇を大事そうに結びながら。
煤《すす》けたホヤのラムプがそこにも一つの簡単な鉄条《はりがね》の自在鍵にぶら下って、鈍い光を黄色く放っていた。柿江はそれを見ると、ふとまた考えてはならぬものを考えだしてしまっていた。自分だけに向って送ってよこす女の笑顔、自分と女とのほかには侵入者のない部屋、すべてを忘れさす酒、その香い、化粧の香い……そしてそれらのすべてを淫《みだ》らに包む黄色い夜の燈火。……柿江は思わずそれを考えている自分の顔つきが、森村という鏡に映ってでもいるように、素早くその顔を窃《ぬす》みみた。しかし森村の顔は木彫《きぼり》のようだった。
「おい貴様この包を帰り途《みち》に白官舎に投げこんでおいてくれないか」
と何げない風にいいながら、柿江はぼろぼろになった自分の袴を脱いで、それに書物包みをくるみ始めた。森村は見向きもせずに前どおりな無表情な顔を眼の前の窓の鴨居《かもい》あたりに向けたままで、
「これからまたどこかに行くんか」
とぼんやりいった。柿江は、
「うむ」
と事もなげに答えるつもりだったが、自分ながら悒鬱《ゆううつ》だと思われるような返事になっていた。
「そこにおいとけ」
ややしばらくして森村がこういった。
まだ生徒たちは帰りきらないで、廊下で取組合いをするものもあるし、玄関に五六人ずつかたまって、教師といっしょに帰ろうと待ちながら、大声でわめいているものもあるし、煤掃《すすは》きのような音を立てて、教室の椅子卓《いすつくえ》を片づけているものもあった。柿江が戸外に出れば、「先生」と呼びかけて、取りすがってくる生徒が十四五人もいるのはわかりきっていた。柿江はそわそわした気分で、低い天井とすれすれにかけてある八角時計を見た。もう九時が十七分過ぎていた。しかしぐずぐずしていると、他の教師たちがその部屋にはいってくるのは知れている。それは面倒だ。柿江は已《や》むを得ず、
「それじゃ貴様頼むぞ」
と言い
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