一つだったが、火影を見るにつけてそれがすぐに思いだされた。気を落ちつけて聞くと淙々《そうそう》と鳴りひびく川音のほかに水車のことんことんと廻る音がかすかに聞こえるようでもある。窓のすぐ前には何年ごろにか純次やおせいと一本ずつ山から採ってきて植えた落葉松《からまつ》が驚くほど育ち上がって立っていた。鉄鎖《てつさ》のように黄葉したその葉が月の光でよく見えた。二本は無事に育っていたが、一本は雪にでも折れたのか梢の所が天狗巣《てんぐそう》のように丸まっていた。そんなことまで清逸の眼についた。
 突然清逸の注意は母家《おもや》の茶の間の方に牽《ひ》き曲げられた。ばかげて声高な純次に譲らないほど父の声も高く尖《とが》っていた。言い争いの発端《ほったん》は判らない。
「中島を見ろ、四十五まであの男は木刀一本と褌《ふんどし》一筋の足軽風情だったのを、函館にいる時分何に発心したか、島松にやってきて水田にかかったんだ。今じゃお前水田にかけては、北海道切っての生神様《いきがみさま》だ。何も学問ばかりが人間になる資格にはならないことだ」
「じゃ何んで兄さんにばっか学問をさせるんだ」
「だから言って聞かせているじゃないか。清逸が学問で行くなら、お前は実地の方で兄さんを見かえしてやるがいいんだ」
 純次は黙ってしまった。父は少し落ち着いたらしく、半分は言い聞かすような、半分は独語《ひとりごと》をいうような調子になった。
「中島は水田をやっているうちに、北海道じゃ水が冷《ひや》っこいから、実のりが遅くって霜に傷《いた》められるとそこに気がついたのだ。そこで田に水を落す前に溜《たまり》を作っておいて、天日《てんぴ》で暖める工夫をしたものだが、それが図にあたって、それだけのことであんな一代|分限《ぶげん》になり上ったのだ。人ってものは運賦天賦《うんぷてんぷ》で何が……」
 そのあとは声が落ち着いていくので、かすれかすれにしか聞こえなくなった。
「兄さんは悪い病気でねえか」
 しばらくしてから突然純次のこう激しく叫ぶ声が聞こえた。今度は純次は母と言い争いを始めたらしい。母も何か言ったようだったが、それは聞こえなかった。
「肺病はお母さんうつるもんだよ」
 純次の声がまた。それは聞こえよがしといってよかった。
「そうしたわけのものでもあるまいけんど」
「うんにゃそうだ」
 そのあとはまた静かになった。清逸は早く寝入ってしまうに限ると思って夜着の中に顔を埋めた。寝入りばなの咳がことに邪魔になった。
 純次が鼻緒のゆるんだ下駄を引きずってやってくる音がした。清逸は今夜はもう相手になっていたくなかったので寝入ったことにしていようと思った。
 思いやりもなく荒々しく引戸を開けて、ぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と締めきると、錠《じょう》をおろすらしい音がした。純次は必要もない工夫のようなことをして得意でいるのだが、その錠前もおそらくその工夫の一つなのだろう。こんな空家同然な離れに錠前をかけて寝る彼の心持が笑止だった。
 やがて純次は、清逸の使いふるしの抽出《ひきだし》も何もない机の前に坐った。机の上には三分|芯《じん》のラムプがホヤの片側を真黒に燻《くすぶ》らして暗く灯っていた。机の片隅には「青年文」「女学雑誌」「文芸倶楽部」などのバック・ナムバアと、ユニオンの第四読本と博文館の当用日記とが積んであるのを清逸は見て知っていた。机の前の壁には、純次自身の下手糞な手跡で「精神一到何事不成陽気発所金石亦透《せいしんいっとうなにごとかならざらんようきのはっするところきんせきもまたとおる》」と半紙に書いて貼ってあった。
 純次は博文館の日記を開いて鉛筆で何か書いているらしかったが、もぞもぞと十四五字も書いたと思う間もなく、ぱたんとそれを伏せて、吐きだすごとく、
「かったいぼう」
 とほざいて立ちあがった。そして手取り早く巻帯を解くと素裸かになって、ぼりぼりと背中を掻《か》いていたが、今まで着ていた衣物を前から羽織って、ラムプを消すやいなや、ひどい響を立てて床の中にもぐりこんだ。
 純次はすぐ鼾《いびき》になっていた。
 清逸の耳にはいつまでも単調な川音が聞こえつづけた。
     *    *    *
 何んという不愛想な人たちだろうと思って、婆やはまたハンケチを眼のところに持っていった。
 上りの急行列車が長く横たわっているプラットフォームには、乗客と見送人が混雑して押し合っていた。
 西山さんは機関車に近い三等の入口のところに、いつもとかわらない顔つきをしていつもとかわらない着物を着て立っていた。鳥打帽子の袴なしで。そのまわりを白官舎の書生さんをはじめ、十四五人の学生さんたちが取りまいて、一人が何かいうかと思うと、わーっわーっと高笑いを破裂させていた。夜学校から見送りに来たら
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