ては十二分の重荷であるのを清逸はよく知っている。弟の純次は低能に近いといっていいから尋常小学だけで学校生活をやめたのはまずいいとしても、妹のおせいに小樽で女中奉公をさせておかねばならぬというのは、清逸の胸には烈しくこたえていた。清逸が会社か銀行にでも勤めていたら(そんな所にいる自分を想像するほど矛盾《むじゅん》と滑稽《こっけい》とを感ずることはなかったが)おせい一人くらいを家庭に取りかえすのは何んでもないことだったろう。一人の妹、清逸がことに愛している一人の妹の身を長い間不自由な境界において我慢しているのは、清逸だからできるのだと清逸は考えていた。しかしどうかすると清逸はそのためにおそくまで眠りを妨げられることがあった。けれどもどんな時でも、清逸が学問をするために牽《ひ》き起される近親の不幸(父も母もそのためにたしかに老後の安楽から少なからぬものを奪われてはいるが)は、清逸をますます学問の方に駆りたてはしても、躊躇させるようなことは断じてなかった。
 清逸は小学校の三年を卒業する時から、自分は優れた天分を持って生れた人間だとの自覚を持ちはじめたことを記憶している。田舎の小学校のことだから、卒業式の時には尋常三年でも事々《ことごと》しい答辞を級の代表生に朗読《ろうどく》させるのが常だった。その時その役に当ったのは加藤という少年だったが清逸は加藤の依頼に応じて答辞の文案を作ってやった。受持教員はそれを読んで仰天《ぎょうてん》した。そしてそれが当日郡長や、孵化場長《ふかじょうちょう》や、郡農会の会長やの列座の前で読み上げられた時、清逸は自分の席からその人たちが苦々《にがにが》しい顔をして聞いているのを観察した。彼らのすべては、その答辞が、教師の代作でなければ、剽竊《ひょうせつ》に相違ないと信じきっているのが清逸にはよく知れた。清逸はその時子供らしい誇りは感じなかった。ただ、一般に偉い人といわれる人が、かならずしも偉いというほどの人ではないとはっきり感じたのだった。偉人として、人の称讃《しょうさん》を受けるくらいのことはそうむずかしいことではないとはっきり感じたのだった。それ以来清逸の自分に対する評価は渝《かわ》ることがない。そしてそれに特別の誇りを感じないのもまた同じだった。この心持がすべての思想と行動を支配した。家族の人たちに対しても彼はそれに手加減をする理由は露ほども見出さないのだ。
 清逸は上京の相談で家に帰りはしたが、自分の健康が掘りだしたばかりの土塊のような苛辣《からつ》な北海道の気候に堪えないからとは言いたくなかったので、さらに修業を続けたいのだというよりしかたがなかった。父は清逸が物をいいだす以上は、自分の智慧《ちえ》ではとても突き崩せないだけの考慮をめぐらした上で物をいうと知りぬいていたから、母に向う時のように、頭からけなしつけて二の句を吐かせないというようなやり方はしようにもできなかった。しかしながら今度の事は父にとってたしかに容易ならぬ難題であったに相違ない。清逸は始めから学資は自分で何んとかするといってみたが、父としてはそれが堪えられないことだったらしい。清逸のことだから元来|羸弱《るいじゃく》な健康を害《そこ》ねても何んとかするであろうが、それまでの苦心を息子一人にさせておくのは親の本能が許さなかったろう。しかしそれにも増して父に不安を与えたのは、かくては清逸がだんだん父母から離れていくだろうということだったに違いないのだ。
 父は自分が一種の怠け者で、精いっぱいに生活をしてこなかったのを気づいている。始終窮境に滅入りこむその生活は、だから不運ばかりの仕業《しわざ》ではない。清逸への仕送りの不足がちなのも、一人娘を女中奉公に出さねばならなかったのも、人知れぬ針となってその良心を刺しているのだ。それを清逸が知っているのを父は知っていた。それをまた清逸は知っていた。清逸はそのことを責める気持はけっしてなかったけれども、父が軽薄な手段をめぐらしてその非を蔽《おお》い、あわよくば自分の要求すべき資格のないものを家族のものに要求しようとするのを見つけだすと快くなかった。
 父が三里も道程《みちのり》のある島松まで出かけていって、中島の養子に遇った気持にはそうしたものがあったはずだ。清逸はそれには及ばないと幾度となくとめてみたけれども、かならず吉報《きっぽう》を持って帰るからといいながら一人で勇んで出かけていったのだ。そしてその結果は清逸の思ったとおりだった。
 ラムプに黄色く灯がついてから、弟の純次は腰から下をぐっしょり濡らして、魚臭くなって孵化場から帰ってきた。彼は店の方に行って駄菓子を取ってきてそれを立ち喰いしながら、駄々子のように母に手伝わせて和服に着かえた。清逸に挨拶一つしなかった。清逸一人が都会に出て、手足に
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