て自分を見たのだと思いながらなお読みつづけた)とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の惰眠《だみん》を貪《むさぼ》り雌伏《しふく》しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは甫《はじ》めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの齢《よわい》に達しながら碌々《ろくろく》として何事をもなしえざること痛悔《つうかい》の至りに候ことに生来病弱|事志《ことこころざし》と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから憫《あわれ》むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき節《ふし》もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に屏息《へいそく》せず艱難《かんなん》して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候
一八九九年十月四日夜
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]星野生
[#天から3字下げ]三隅ぬい様
どんな境遇をも凌《しの》ぎ凌いで進んでいこうとするような気禀《きひん》、いくらか東洋風な志士らしい面影《おもかげ》、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも偽《いつわ》らない親切心で物をいう先生らしい態度が、蒼古《そうこ》とでも評したいほど枯れた文字の背《うし》ろに燃えていると園は思った。
同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に無頓着《むとんちゃく》でいられるだろうか。
園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する微笑《ほほえ》ましい気持が顔へまで波及《はきゅう》するかと思われた。園は愚《おろ》かなはにかみを覚えた。
園は自分の前にしとやかに坐っているおぬいさんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の劇変《げきへん》しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。
星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……
園ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは瞬《またた》きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを気取《けど》ろうはずはもとよりなかった。
けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。
その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴《さ》え冴えと聞こえてきた。
おぬいさんの家の界隈《かいわい》は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑《にぎ》やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈《つんざ》いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。
それは胸の底に沁《し》み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報《むく》いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬《いけい》する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁《いんねん》もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄《がら》にもない啓蒙的《けいもうてき》な仕事に時間を潰そうとしている
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