になりまして」
 簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。
「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」
「まあ……」
 おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。
「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」
 そういいながら園は内|衣嚢《かくし》から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温《ぬく》みがそれに沁《し》みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇《ちゅうちょ》した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。
 何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
 おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪《かんざし》を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草《しぐさ》から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
 おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著《いちじる》しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
 藍がかってさえ見える黒い瞳《ひとみ》は素《す》ばしこく上下に動いて行《ぎょう》から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」
「そういっていました」
 園もまともにおぬいさんを見やりながら。
「だいじょうぶでしょうか」
「僕も心配に思っています」
 この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映《うつ》ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。
 おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑《まだ》らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜《みにく》くそして淫《みだ》らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々《ういうい》しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。
 読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に添《そ》えてそれを机の上に戻した。そして両手で火照《ほて》った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った肘《ひじ》がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。
 園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。
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「前略この手紙を園君に託してお届けいたし候《そうろう》連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて喀血《かっけつ》いたし候ようの始末につき今日は英語の稽古《けいこ》休みにいたしたくあしからず御容赦《ごようしゃ》くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても御知悉《ごちしつ》のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の畏友《いゆう》たるべく候(この辺まで進んだ時、おぬいさんが眼を挙げ
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