いうこともなく涙が湧いてきた。彼はばかばかしくなって大声を揚げて笑った。
「園君じゃねえ、園はいるか園は。それか。君……君はじゃねえ貴様はおぬいさんに惚《ほ》れているだろう。白状しろ。うむ俺は惚れてる。悲しいかな惚れている。悲しいかなだ。真に悲しいかなだ。俺は罪人だからなあ。悔《く》い改めよ、その人は天国に入るべければなり……へへ、悔い改めら、ら、られるような罪人なら、俺は初めから罪なんか犯すかい。わたくしは罪人でございます。へえ悔い改めました。へえ天国に入れてもらいます……ばか……おやじが博奕打《ばくちうち》の酒喰らいで、お袋の腹の中が梅毒《かさ》腐れで……俺の眼を見てくれ……沢庵《たくあん》と味噌汁《みそしる》だけで育ち上った人間……が僣越ならけだものでもいい。追従にいってるんでねえぞ。俺は今日け――だ――も――のということがはっきり分ったんだから。星野の奴がたくらみやがったことだ」
「おいガンベ、そんなに泣き泣き物をいったって貴様のいうことはよく分らんよ。今日はこれだけにして酔っていない時にあとを聞こうじゃないか」
それが石岡の声らしかった。
「ばかいえ貴様、そうきゅうにわかってたまるものか。飲んだくれ本性たがわずということを知らんな。……婆や、酒はどうした、酒は……。けれどもだ……貴様のけれどもだ、おい西山……ふむ、西山はもういねえのか。とにかくけれどもだ、貴様たちは俺が罪人なることを悲しんでいないと思うと間違ってるぞ。……はははそんなことはどうでもいい。それは第一貴様たちの知ったこっちゃないや、なあ。……とにかく……皆んな貴様たちはおぬいさんを知ってるな。けれども、貴様たちは一人だって、どれほどあの娘が天使《エンジェル》であるかってことは知るまい。俺は今日それを知ったんだ。この発見のお蔭で俺はこのとおり酔った。わかるか」
「わからないな」
それは人見だった。申し合わせたように二三人が笑った。
「ははは……(彼はやたらに涙を拭った)俺にもわからんよ。……園、貴様はおぬいさんに惚れてるんだろう」
園はほほえみながら静かに頭をふった。
「そんなことはない」
「じゃ惚れろ。断じて惚れろ。いいか。俺は万難《ばんなん》を排して貴様たちに加勢してやる。俺は死を賭《と》して加勢してやる。……園、俺は今日一つの真理を発見した。人生は俺が思っていたよりはるかに立派だった。ところが……じゃいかん……だからだ。whereas《フェラアーズ》 じゃない。therefore《ゼアフォー》 だ。それゆえにだ……俺のようなやつが、住むにはあまり不適当だ。こういうんだ。悲観せざるを得ないじゃないか。……しかし俺は貴様たちを呪うようなことは断じてしないぞ。……安心しろ貴様たちを祝福してやるんだ、俺は死を賭して貴様たちに加勢してやる。……ははは……とか何んとかいったもんだ。どうだ石岡。石金先生、……相変らず貴様はせわしいんか。貴様が俺に酒の小言さえいわなけりゃ、一枚男が上るんだがなあ……しかし貴様の老爺親切には俺はひそかに泣いてるぞ。……余子碌々……おいおい貴様たちは何んとか物をいえよ、俺にばかりしゃべらしておかずに……園、貴様惚れろ。いいか惚れろ」
「ガンベはだめだよ。貴様いつでも独りぎめだからなあ。他人の自由意志を尊重しろ、園君には園君の考えがあるだろう」
帽子を被ったままのが言ったんで、森村だと渡瀬にも分った。
「ふむ、そうか。……そんなものかなあ……」
「園君、君はもうあっちに行くといい……。そしてガンベもう帰れ、俺が送っていってやるから。今夜は雪だからおそくなると難儀だ」
そう人見がとりなし顔にいったけれども、園は座を立とうともしなかった。渡瀬はどうしてもうん[#「うん」に傍点]といわせたかった。園が不断から言葉少なで遠慮がちな男だとは知っていたけれども、これだけいうのに黙っていられるのは、癪《しゃく》にさわらないでもなかった。それよりも渡瀬はすべてが頼りなくなってきた。自分でも知らずに長く抑えつけていた孤独の感じが一度に堰《せき》を切って迸《ほとばし》りでたかと淋しかった。
「園、貴様何んとかいってもいいじゃないか。俺は酔っぱらっているさ。……酔っぱらっているからって渡瀬作造は渡瀬作造だ。それとも渡瀬作造なるものに……まあいい園、俺と握手をしろ。そうだもっと握れ。俺が貴様の自由意志を尊重していないとしたらだな……俺はあやまる……。どうだ」
澄んだ眼を持った園の顔はすぐ眼の前にあった。それを涙がぼやかしてしまった。園の手が堅く渡瀬の手を握ったかと思うと、
「僕は君の言葉をありがたくさっきから聞いていたんだよ。よく考えてみよう」
「考えてみよう?……好男子、惜しむらくは兵法を知らず……まあいい、もう行け」
「僕も人見君といっしょに君を
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