を覗きこむようにした。渡瀬は確信をもって黙ったまま深々とうなずいた。物をいうと泣き声になりそうだった。
「いけませんよ……じゃあ待っていらっしゃいよ」
待っている間、涙がつづけさまに流れ落ちた。
渡瀬の眼の前につきだされたのは、なみなみと水を盛った大きなコップだった。渡瀬はめちゃくちゃに悲しくなってきた。それを一呑みに飲み干したい欲求はいっぱいだったが、酔いがさめそうだから飲んではならないのだ。
「や、さようなら」
あっけに取られて、コップを持ったまま見送っている奥さんに胸の中で感謝しながら、渡瀬は玄関を出て往来に立った。
雪はますます降りしきっていたが、渡瀬はどうしても自分の家に帰る気にはなれなかった。薄野《すすきの》薄野という声は、酒を飲みはじめた時から絶えず耳許《みみもと》に聞こえていたけれども、手ごわい邪魔物がいて――熊のような奴だった、そいつは――がっきりと渡瀬を抱きとめた。渡瀬の足はひとりでに白官舎の方に向いた。
「おぬいさん……僕は君を守る……命がけで守るよ……守ってくれなくってもいいって……そんなことをいうのは残酷《ざんこく》だ……僕は君みたいな神様をまだ見たことがなかったんだ……何んにも知らなかったんだ……星野って奴はひどいことをしやがる奴だな……あいつのお蔭で俺は、……俺は今日、救われない俺の堕落《だらく》を見せつけられっちまったんだ。美しいなあおぬいさんは……涙が出るぞ。土下座《どげざ》をして拝《おが》みたくならあ……それだのに、今でも俺は、今でも俺は……機会さえあれば、手ごめにしてでも思いがとげたいんだ。俺はいったい、気狂か……けだものか……はははは、けだものがどうしたというんだ。俺だって、おぬいさんくらい美しく生れついて、銀行の重役の家に育って、いい加減から貧乏になってみろ、俺だって今ごろは神様になっているんだ……神様もけだものもあるかい。……おぬいさんが可哀《かわい》そうだ……俺は何んといってもおぬいさんが可哀そうだ。……理窟なしに可哀そうだ……可愛さあまって可哀そうだ……俺は何んといっても悪かったなあ……生れ代ってでもこなければ、おぬいさんの指の先きにも、……現在触ってみたところが結局触ったにならない俺なんだ……俺は自分までが可哀そうになってきたぞ……」
いつの間にか彼は白官舎の入口に立っていた。
暗いラムプの下のチャブ台で五人ほどの頭が飯を食っていた。渡瀬はいきなりそれらの間に割りこんで坐った。
「ガンベか。ただ今食事中だ、あすこの隅にいって遠慮していろ。今夜はばかに景気がいいじゃないか」
といったのは人見だった。そこには園もいた。あとは誰と誰だかよく解らなかった。
「貴様は誰だ。(顔を近づけると知れた)うむ柿江か。誰だそこにいる貴様二人は」
「森村と石岡じゃないか。西山の代りに今度白官舎にはいったんだよ。臭いなあ……貴様はまた石岡にやられるぞ。そっちにいってろったら」
とまた人見がいった。渡瀬は動かなかった。
「何をいうかい。今日は石岡も石金もあるもんか……酔ったぐらいで人をばかにしやがると承知しないぞ、ははは……おい人見、ここには酒はないのか、酒は。……ねえ? ねえとくりゃ買うだけだ。おい婆や……もっとよく顔を見せろ。ふむ、お前も末座ながら善人の顔だ……酒を買ってきてくれ。誰かそこいらに金を持っている奴はないか。俺の寿命を延ばすとおもって買ってきてくれ。飯なんぞもぞもぞ[#「もぞもぞ」に傍点]と食ってる奴があるかい、仙人みたい奴らだな」
柿江がそうそうに飯をしまって立とうとした。それを見ると渡瀬はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった。
「柿江……貴様あ逃げかくれをするな。俺は今日は貴様の面皮《めんぴ》を剥ぎに来たんだ。まあいいから坐ってろ。……俺は柿江の面皮を剥ぎに来た、と。……だ、そうでもねえ。俺は皆んなに泣いてもらいに来たんだ。石岡、貴様はだめだ。貴様のようなファナティックはだめだとしてだ、……おい、皆んな立つなよ。……何んだ、試験だ……試験ぐらい貴様、教場に行って居眠りをしていりゃあ、その間に書けっちまうじゃねえか」
「俺に用がなければ行くぞ」
石岡が顔色も動かさずにそういいながら座をはずしかけた。
「石岡、貴様はクリスチャンじゃねえか。一人の罪人が……貴様はいつでも俺のことをそういうな。いんやそういう。……罪人が泣いてもらいたいといっているのが聞こえなかったんか。……たとえ俺がだめだといったところが、貴様の方で……まあ坐れ、坐ってくれ。……一人でも減ると俺はおもしろくないんだ……坐れえおい。俺が命令するぞ」
婆やが何かいいながらチャブ台を引いた。壁ぎわに行ってばらばらにそれに倚《よ》りかかっている五人が、朦朧《もうろう》と渡瀬の眼に映った。ただ何んと
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