しばらく考えているらしく、返事をしなかった。
人見は園が格別裕福な書生であるとは思われなかった。が、少なくとも白官舎にまがりこまねばならぬほどの書生ではなく、ここに来たのは星野がいっしょにいようと勧めたからのことであるのを知っていた。それにしても、足りないながらも国許から毎月自分に送ってくる学資をよそに消費しておいて――消費するというと大きく聞こえるが、ほんの少しばかりをおたけとクレオパトラのために消費するだけなのだ――不足を園にぶちかけるのは少し虫がよすぎるようだ。しかしこの場合金がいることだけはたしかなのだ。園が何んと返事をするかと人見はそれに興味をさえかけた。
「だいぶ切迫して必要なの」
とややしばらくして園がはじめて顔を上げて静かに人見を見た。これはまた園があまり真剣に考えすぎたなと思うと、人見には即座に返事をするのが躊躇《ちゅうちょ》された。その時ふっと考えついた思案をすぐ実行に移した。彼は懐中を探《さぐ》って蟇口《がまぐち》を取りだした。そしてその中からありったけの一円五十銭だけ、大小の銀貨を取りまぜて掴みだした。
「もっともこれだけはあるんだが、これは何んの足しにもならないが、僕の君に対する借金の返済の一部とするつもりで取っておいたんだ。ところが昨日本屋の奴が来やがって、いやに催促がましいことをいうもんだから、ひとまず君にはすまないが――そっちを綺麗にして鼻をあかしてやれという気になったのさ。で、これをまず君の方に納めて、あらためて五円にして貸してくれるわけにはいくまいかな」
「いいとも」
園はその長口上を少しまどろこしそうに聞いているらしかったが、人見の言葉が終るとすぐにこういって、机の方に向きなおった。園は例のとおり、ポッケットの中から、机の抽出しから、手帳の間から、札びらや銀貨を取りだした。あの几帳面《きちょうめん》に見える園には不思議な現象だと人見の思うのはこのことだけだった。あれで園はいつどこにいくら入れたということをちゃんと諳記《あんき》しているのかもしれないとも思った。園は取りだした金を机の上で下手糞《へたくそ》に勘定していたが、やがてちょうど五円だけにしてそれを人見の前においた。そして自分の方が金を借りでもしたかのように、男には珍らしい滑《なめ》らかな頬の皮膚をやや紅くした。
「どうもすまないよ。どうもありがとう」
人見は思わずせきこんでこういったが、何か自分の言葉が下品に響いたようだった。
戸外では寒いからっ風が勢いこんで吹きすさんでいるらしく、建てつけの悪るい障子が磨《す》りへらされた溝ときしり合って、けたたましい音を立てていた。この時始めてそれに気がつくと、人見は話の糸目を探りあてたように思って、落着きを見せて畳の上の金を蟇口にしまいこみながら、
「こりゃいよいよ冬が来るんだよ。また今年も天長節《てんちょうせつ》には大雪だろうね。星野はどうしているかしらん」
と園の心を占めているらしくみえる名前の方に漕ぎ寄せていった。
「星野君からは昨日手紙を貰ったっけ。すっかり冬が来るまでは千歳にいるのだそうだ。別に健康が悪いというのでもなさそうだが、気候の変り目はあの病気にやはりよくないのだろうね」
そういって園は静かに人見を見上げたが、その眼は人見を見ているというよりも、遠い千歳の方を見すかしているように見えた。人見は人見で、今蟇口をしまいこんだポッケットの中に、おたけから来た手紙が二つに折ってしまいこまれてあるのを意識していた。彼はそれを撫《な》でてみた。園に対して感じるとはまったく違った暖かい、ふくよかな感じが、みるみる胸いっぱいに漲《みなぎ》ってきた。
「君はこのごろはどうなの」
園がしばらくしてからこういった。園の眼は今度はまさしく人見を見やっていた。人見は不意を衝かれたように思って、ちょっと尻ごみをしていたが、慌て気味に手が襟巻のところに行ったと思うと、今まで少しも出なかった咳が軽く喉許を擽《くすぐ》るのを覚えた。しかし人見はわざとその咳を呑みこんでしまった。
「なあに、僕のはたいしたことはないんだよ」
まったく医者が見てくれるたびごと、たいしたことはないというのだが、それが何か物足らないのだけれども、この場合やはり医者がいうようにいうのが恰好だと人見は思ったのだ。そして園という男は変にストイックじみた奴だなと思った。
* * *
紺の上っぱりを着て、古ぼけた手拭で姉さんかぶりをした母が、後ろ向きに店の隅に立って、素麺《そうめん》箱の中をせせりながら、
「またこの寒いにお前どこかに出けるのけえ」
というのを聞き流しにして清逸は家を出た。
夕方だった。道を隔てて眼の前にふさがるように切り立った高い崕《がけ》の上に、やや黄味を帯びた青空が寒々と冴《さ
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