は学校で「農政および農業経済科」を選んでいるくせに、その人にどんな著書があるかをさえ調べてみたことはなかったのだ。
「そうだってね。僕にはその無政府主義のことはよく分らないけれども、この本の序文で見るとダーウ※[#小書き片仮名ヰ、275−下−9]ン派の生物学者が極力主張する生存競争のほかに、動物界にはこの mutual aid ……何んと訳すんだろう、とにかくこの現象があって、それはダーウ※[#小書き片仮名ヰ、275−下−12]ンもいっているのだそうだ。……そうだ、いってはいるね。『種の起源』にも『旅行記』にも僕は書いてあったと思うが……。それがこの本の第一編にはかなり綿密に書いてあるようだよ」
「科学的にも価値がありそうかい」
「ずいぶんダータはよく集めてあるよ」
 そういいながら園はそこにあった葉書をしおりにはさんで書物を伏せた。柿江――彼は驚くべき多読者だが――などが書物を読んでいるのを見ても、そうは思わないが、園の前に書物があるのを見ると、人見はある圧迫を感じないわけにはいかなかった。園はあの落ち着いた態度で書物の言葉の重さを一つずつ計りながら、そこに蓄えられている滋養分を綺麗に吸い取ってしまいそうに見えた。そして読み終えられた書物には少しの油気も残ってはいまいと思わされた。実際園が書物に見入っているところを傍から見ていると、一刻一刻園が成長してゆくのが見えるようで、人見はおいてきぼりを喰いそうで、不安になるくらいだった。といって彼の書見に反対を称《とな》える理由はさらにないのだ。
 話題が途切れると、園は静かな口調で、今まで読んだところを人見に話し始めたが、人見にとっては初耳で珍らしい事実が次から次へと語りだされるのだった。そして園は著者の提供した議論に対しても相当に見識があると思われる批評を下すのを忘れなかった。生娘のように単純らしく思われる園の頭がよくこれだけのことを吸収しうるものだ。つまりあいつの頭は学者という特別な仕事に向くようにできているんだと人見は(自分の持っている実際的の働きにある自信を加えて)思った。したがって園の話すところは、珍らしく、驚くべき事実であるには相違ないけれども、人見にとっては直接何んの関係もないことだった。そんなことを覚えていたところが、それは彼にとっては鶏肋《けいろく》のようなもので、捨てるにもあたらないけれども、しまいこんでおくにはどこにおくにも始末の悪い代物だった。結局その場のばつ[#「ばつ」に傍点]を合わせるために、そうかといって聞いておけば、それですむような事柄なのだ。で、人見は聞きながらもだんだん興味からは遠ざかっていった。それよりも機を見計らってこっちから切りだそうとする問題が、ややともすると彼の頭をよけい支配した。
 人見の顔からは興味の薄らいでゆくのを見て取ってか、園はやがて話を途中で切って黙ってしまった。それがしかし人見を軽蔑しての上のことでないのはその顔色にもよく窺《うかが》われるし、かえって自分で出すぎたことをいって退《の》けたと反省して遠慮するらしい様子が見えた。
 この辺でこっちが今度は切りだす番だ。ちょうどいい潮時だと人見は思ったが、園に向っていると変にぎごちない気分が先き立った。彼は自分を促《うなが》したてるように、明日に迫る月末の苦しさを一度に思い起してみた。それと同時に、何度も園からせびり取りながら、そして一時的な融通を頼むようなことをいつでもいいながら、一度も返済したことのない後ろめたさが思い起されるのだった。今度借りたら、今度こそは一度でも綺麗に返金しておかないとまずいことになる。そうしよう。そうして借りようととうとう人見は腹をきめた。
 人見は星野の真似をして襟首に巻いていた古ぼけたハンケチに手をやって結びなおしながら上眼で園を見やった。
「時に園君どうだろう。君の所に少しでもよぶんの金はないだろうか。(おっかぶせるように)じつは君にはたびたび迷惑をかけているのですまないんだが、またすっかり行きつまっちゃったもんだから……西山か星野でもいるとどうにかさせるんだが(こりゃ少しうそがすぎたかなと思ったが園がその言葉には無関心らしく見えるのですぐ追っかけて)ちょうどいないもんだから切羽《せっぱ》つまったのさ。本屋の払いが嵩《かさ》みすぎて……もう三月ほど支払を滞らしているから今度は払っておいてやらないとあとがきかなくなるんだ。……そうだねえ五円もあれば(五円といえば一カ月の食費だが少し大きくいいすぎたかしらんと思って人見はまた園の様子を窺《うかが》った)……何、それだけがむずかしければ内輪《うちわ》になってもかまわないんだが……」
 園は人見の眼に射られると、かえって自分で恥じるように視線をそらして、火鉢の火のあたりを見やったが、じっとそれを見やって
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